巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

kettounohate10

決闘の果(はて)(三友社 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

since 2019.1.21


下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

     決闘の果   ボアゴベ作  涙香小史 訳述
         

       第十回 身震いする大谷

 さて大谷は重荷を背負った心地で、彼の口豆な夫人の部屋を出て、森山嬢の居間へと上って行った。居間は前から知って居る通り三階の面に在る。入口の戸を斜めに開いて置いて、人が窺(うかが)い見るのに任せてあるので、先ず戸の外から様子を見ると、嬢は窓の際に居る。

 半ば身を伸ばして、力も無く絹張りの椅子に身を投げ、稍々(やや)仰向けに打ち凭(もた)れながら、醒めて居る様な眠って居る様な様子である。日頃見開いた目を今は閉じもせず開きもせず、其の美しさは言葉に表しようが無い。

 アア是眠らずして桑柳の事を夢みつつ有る者かと、大谷はこの様に思ったが、嬢の夢路に通う人は、果たして桑柳其人であるか、将(はた)又た大谷自身であるか、軽々に判じる事は難かしい。

 大谷は入って行こうかどうしようかと迷い、引き返そうかと身を動かすと、其の音が嬢にの耳に入ったのか、嬢は忽(たちま)ち夢を破り、立ち上がって此方に来た。
 「オヤ貴方ですか。貴方一人ですか。分かりました。桑柳は死にましたネ。」
     
 大谷は非常な悲しみの色を帯びて、
  「ハイ死にました。戦場に死する勇士と同じく、潔く死にました。」
 嬢「私は多分死んだ事と思って居ました。」
 大「貴方は窓から私の来るのを見て、爾(そう)とお察しなすったので有りましょう。」

 嬢「イエ、一昨日、桑柳が狂気の様に成って参りましたが、先刻又私は急に胸が痛み、況(ま)して乳の当たりを射貫かれた様な心持がしましたゆえ、之が世に言う前兆とやらでは無いかと思って居ました。」

 大「今と為っては致し方も有りませんが、死ぬ時まで貴女の事を言って居ました。私の膝の上で其の息を引き取る時に、何うか直々に森山嬢の許へ行き、此事を知らせて呉れと私に頼みました。」
 嬢「ハイそれは私から頼んで置いたのです。外の人では了(い)けないから必ず貴方と。」

  貴方の二字に殊更ら力を入れた様に聞こえたので、大谷は我知らず驚いたけれど、嬢は更に身を切る様な切なる声で、
  「貴方は定めし私が涙一滴流さないのを見て、底意地の悪い女と思(おぼ)し召しで有りましょうが、それは又私の心を御存知が無いのです。ハイ私も二十歳に足らない女ですので、悲しい事は充分に悲しみますが、私には涙が有りません。」

 大谷は此の異様な言葉に益々驚き、何と答えて好いか分からず、唯、
 「ハイ、昔の人も真の悲しみには涙も無く、言葉も無しと言って居ります。」
と言って、僅かに我が当惑を隠すのみ。

 「取分けて又、此の度の決闘も、元はと言えば私から起こった事ですので、私は悲しみますけれども。」
と言い掛けるのを大谷は堰き止めて、
 「オヤ、それでは全く貴女の為に出た決闘ですか。」

 嬢「ハイきっと桑柳からお聞きでしょうが、私は若し桑柳の身に間違いでも有っては為らないと思い、世間の評(うわさ)は聞き捨てにする様にと此の決闘を制(とど)めましたけれど、其の甲斐も無く、此の様な事に成りました。

 若し決闘しなければ済まないと言う訳が有って決闘するなら、それは仕方も有りませんが、この度の事などは、唯本多満麿が人の前で私と桑柳の事に就いて、取るにも足らない噂をしたのが始まりで。」

 大「イヤ仮令(たとえ)取るに足らない事柄でも、紳士の意地として、聞捨てに成らない場合も在ります。尤も本多が何の様な事を言ったかは知りませんけれど。」

 嬢「イエ唯是だけの事です。『桑柳は森山嬢を妻に貰うと言い出したけれど、此の婚礼は末始終、浪風なしには治まるまい。取分け嬢は唯だ財産に目が眩(く)らみ、其の婚礼を承知したのだから、終には両方とも馬鹿を見るだろう。』と他人に向かって言ったそうです。其れも丁度私の伯母福田老夫人の夜会の席で、老夫人も桑柳も其の後ろに居て聞いたと言います。」

 大「成る程そう言われては聞捨てに成りません。私にしろ決闘します。」
 嬢「でも貴方、本多が之を言うには外に仔細がが有るのです。昨年頃私の許へも度々来て、母に私を呉れろとか言う相談も有ったと聞きましたが、其時私は断然(きっぱり)と断りました。それを遺恨に左様な事を言うのですから、紳士とも言うべき者が決闘の相手とするには足りない人物です。

 其の者の言う事を気に留めて、彼是言うのは自分の身を汚すも同様ですから、私はそのことを桑柳に話して、何うか決闘は止めて呉れと言いました。所が桑柳は私の名前は出さないで、外に口実を求めてするとか言いまして。」

 大「フムそれは実に惜しい事です。若し私が前以て左様な訳を耳に入れたら、私が充分本多を懲らして遣り、桑柳に決闘などさせませんでした者を。」
 嬢「私もそう思ったから、及ぶだけ止めたのですけれども。」
と言い切って暫(しば)し躊躇する様子なので、
 大「けれど何う致しました。」
 嬢「ハイ、けれども桑柳は其の前から死ぬ決心を起しました。」

 大谷は此の一言に愕然として、
 「エ、死ぬ決心を、ナニ其の様な筈は有りません。貴女を愛し、貴女にも愛せられて居る桑柳が、若し嬉しさの余り気でも違えば知らぬ事ですが、左も無くば、---取分けて貴女は婚礼の約束まで成さったでは有りませんか。」

 嬢「ハイ約束はしましたけれど、桑柳はそれだけでは承知せず、私に出来ない様な難題を望むのです。其の難題が出来ないからと言って終に失望して、死ぬ気に成ったのです。」
 大「ヘエ貴方に愛せられながら、まだその上の難題とは全体何(ど)の様なことですか。」

 嬢「ナニ其上の難題では有りません。唯私に愛せられたいと言うのです。ハイ私は未だ桑柳を愛しません。」
 アア桑柳と婚約まで為した身が、桑柳を愛せずとは如何なる心なのか知らないけれど、此の時又大谷の耳には、桑柳の死に際の言葉、

 「嬢は君を愛して居る。」
との声が歴々と聞こえる様に思われ、更には彼の手帳の日記に、「今日余は嬢の心の奥を見破ってしまった。」
などと記した事まで思い出され、大谷は身震いするのを覚えた。

 素(もと)より嬉しさの身震いでは無い、又恐ろしさの身震いでも無い。アア何の身震いなのだろうか。
 大谷自らも知らないのだ。



次(第十一回)へ

a:24 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花