巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume22

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.7.24

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               二十二

 春人(はるんど)は既にその真の愛をイリーンに費やした後であるが、李羅子に取っては実に今迄に初めての大事である。李羅子は平常(へいぜい)は非常に落着き、非常に打ち解けた性質であるが、この場合に臨んでは、今更の様に心騒ぎ、直ぐには返事も口に出なかった。この様な折りしも外の方に足音があった。

 「是蘭(ゼランド)嬢は何処へ行ったのだろう。僕とこの次の踊りを約束してあるのに。」
と言って尋ね来る声が聞こえてきたので、李羅子は難しい位置から救い出された心地で、
 「この話は又ゆっくりとし直す事に致しましょう。」
と言って立ち上がった。春人はまだ話が終わっていなかったので物足りなかったが、是も又仕方が無いので、
 「いずれ改めて伺います。」
と言って立ち上がった。

 固より李羅子がその父伯爵より受けた命は、婚礼を取り決めよと言うのではなく、最早口を切って好い頃だと、春人に思わせよというだけの事だったので、李羅子は是で父の言い付けだけは果すことが出来たものと思い、踊りを終って家に帰り、父伯爵に有った次第を詳しく語ると、伯爵は満足し、

 「イヤ、それだけで沢山だ。そこまで運べば明日にも春人が婚礼を言い込んで来るだろう。」
と言ったが、果せるかな、翌日は彼午前の中に来て、嬢に面会を求めた。
 嬢も平常(へいぜい)よりは、幾らか気を付けて身を飾り、客間に入って彼に会うと、彼は昨夜の糸口を継ぎ、頻(しき)りに我を愛してはいないかと問い、又我を愛せよと言って止まない。嬢は昨夜から考えていて、心も大いに定っていたので、打ち騒ぐ気色も無く、唯日頃の打解けた調子で、

 「ソレは中々難しいお問いです、愛せよと仰っても、愛が商売の品物かなんぞの様に、ハイ、それならと言って心の起こるものではないでしょう。」
と笑いながらに答え、更に非常に真面目になって、
 「併し私の心は、未だ誰に向かっても愛と言うものが出たこと無く、是から追々出る頃だろうと思いますから、この愛を貴方が自分の身にお引き付けなさるのは、唯貴方のこの後の勉強次第です。」

 春人は恨めしそうに、
 「ソレはお情け無い事を仰る。この後の勉強とは、如何すれば好いのです。」
 「イイエ、貴方ならば充分気心も分かっていますので、この後私の心に愛さえ出れば、充分に私の夫にしても好い方だとこう思います。唯私は、心に思うだけの事は言わずに居られない質ですから、何もかも言いますが、不正直な人は大嫌いです。又嘘などを言う人は大嫌いです。」

 嘘と言う語は少し春人の胸に応(こた)えたが、その気を見せず、
 「それは誰でも同じです。私が何で不正直の事をしたり、嘘を言ったり致しましょう。」
 「ハイ、その様な事を為さらぬ方だから、それで愛さえ起これば夫にしても好いと言うのです。」
 「イヤ、それだけのお返事では未だ足りません。屹度その愛を起こし、私を愛すると仰って下さらなければ。」
と言う中にも熱心の色が充分に現れている。

 春人は既に前約のある事と言い、且つは昨夜の素振りと言い、自分から口さえ切れば、直ちに婚礼が行われる事とばかり思っていたのに、中々嬢に奥深い所があり、容易に応ずべしとも見えないので、今は如何しても嬢の心を動かさなければと、却って真実の熱心を起こしたものである。真実の熱心には嬢の心もやや動き出したか、嬢も益々真面目な様子となり、

 「イヤ、貴方は唯親と親との約束が有るために、それを守らなければ成らないと思い、外に愛する女が有るのにそれを捨てて其の様な事を仰るのではないでしょうね。」
 我が心を見抜いたかの様に問われて、春人は我が顔の火よりもまだ熱いのを覚え、返事も喉につかえる程だったが、漸くにして声を出し、

 「決してその様な訳では有りません。」
 「イエ、何も妻たる者が夫の事を、残らず知らなければ成らないと言う訳では有りませんけれど、夫婦と為るには互いに今までの事を打明かし、少しも暗い所の無いようにした上で無ければ、ならないだろうと思います。」
 「勿論です。勿論です。」
 
 「暗い所を隠して置いて、そうして妻を求めるほど罪な事は有りません。妻の方ではこの人なら生涯の夫に出来る者と、充分信じて一生を託しますのに、夫が前以て心を外へ許した様な事があり、それが婚礼後に現れては、それこそ妻の生涯を誤る者に当たりますから。」
と言い来る言葉の節々、宛もイリーンの恨みを其の儘に述べ来るかと疑われる程なので、春人は益々我が身の罪深いのを感じ、殆ど顔色の変わろうとするのを防ぐ事が出来そうにない程だったが、又思えば、思慮ある女が婚礼に先立って、この様な事を問うのは当然のことなので、ここが大事と必死に為り、

 「私に限って、決してその様な事は有りません。」
 「では、今迄、外の女を愛した事は無いと仰りますか。」
 「ハ、ハイ」
 「それとも幾らか有りますか。」
 「有りません。イヤあの女はト多少心を寄せた様な事は有っても、皆若気の妄想と言う者で、三日と経たないうちに忘れて仕舞いました。全くの妄想だけです。決して真面目に貴女を愛する様に真実愛した事は、一度も半分も決して有りません。」

 この言葉をもしイリーンに聞かせたならば、我をなんと言うだろう。この様にしているうちにもこの様な想いが胸に浮かんで、益々穏かならない所があるのは、己が犯したその罪の報いと言うものだ。
 「では私が貴女と婚礼するとすれば、私は白紙よりもっと清い一点の汚れの無い夫を持つのですネ。」
 「勿論です。勿論です。」

 「イエ、貴女がそうまで仰れば、この上何も引き伸ばすには及びません。貴方と夫婦の約束を致しましょう。」
 春人は嬉しさに我慢が出来なうように、
 「真に貴女は私の生涯の宝です。私の一生は、唯貴女の身を幸いにするのみに費やします。」
 「その代わり、今婚礼すれば、貴方は自分を敬うのみで、未だ自分に対し充分の愛情の起こらない妻を持つ者と思わねば成りませんよ。」

 「イヤ未だ真の愛情が無いにしても、妻となれば、私の実意でその愛情を起こさせます。ハイ、愛さなければ成らない様に、充分の親切を尽くします。」
と殆ど叫ぶ様に言った。


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