巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume34

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.8.5

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              三十四

 四辺(あた)りに人の絶えたのを見て、公爵夫人に呼び掛ける春人(ハルンド)は何を考えているのだ。彼は公爵夫人の心中にまだ昔の愛が残って居るに違いないと思い、再びその愛を引き出だそうとする思いなのか。
 彼昔イリーンを弄したのと、同じ優しい調子で、

 「コレサ、イリーン、誰も居ないのに、そう余所余所しくする事は無いじゃないか。」
と言い、椅子をこちらに振り向けた。イリーンはこの声を聞いたのか。聞かなかったのか。その静かな顔はいやが上にも静かにして、何の色、何の気合いも現さない、唯泰然として落ち着いているだけ。
 「コレサ、イリーン、コレ」

 再び呼ぶその声は、前よりも一層の熱心さを帯て聞えたけれど、寛(くつろ)いて控えて居たイリーンの様子は少しも変わらず、胸に仙禽の羽毛を以って、非常に細かに編成した扇を当て、安らかにその身を椅子の背に凭(もた)せて、扇の羽毛を一本さえも動かさず、顔の艶、眼の澄(さ)え、総て唯独り我が居間に休んでいる時の通りにして、我が身の外に人が有るのを忘れ、人に対して我が身が有るのを忘れ、心に一物も侵し入るものの無いのに似ていた。

 しかし、イリーンにして、今迄一度でさえも此の人に逢ったことがあるなら、顔のどこかに見覚えの色を現し、隠そうにも隠し切れない所がある筈なのに、他人も他人、犬猫よりもまだ取るに足りない、もっと心に留めない他人を見る様に、唯穏かに控えているばかり。しばらくしてイリーンは我が心が全く治まり、最早や如何なる言葉を聞いても、絶対に動く恐れ無しと見極めたのか、春人のほうに振り向き、

 「アア、貴方は西富子爵でしたね。絵画室へでもご案内致しましょうか。」
と言うその声は、公爵夫人に似合わしい騒ぎも震えもしない声で、其の言い方は今迄我が傍にこの人が居るのを忘れて居て、初めて思い出したような言い方である。春人は叫ぶ様に、

 「コレ、イリーン、それでは余り余所余所し過ぎるじゃないか。タッタ一言、優しい言葉を掛けてくれ。その様に扱われては、私は本当に気が違うヨ。」
 イリーンは爽やかな目を太く開き、言うに言われない程の賤しみを現して、春人の顔を見下しながら、
 「西富子爵、もし私へ仰るならば相当の言葉がありましょう。私は唯のイリーンでは有りません。五田公爵夫人です。」

 「誰で有ろうとそう余所余所しくしなくても好いだろう。今は公爵夫人でもイリーンだ。イリーンだ。元はダントンの姓を名乗ったイリーンだ。決して私と他人ではない。他人に成りたくても成れない訳がある。」
 イリーンは軽く笑み、
 「オオ、世の中に私と貴方ほどの他人は、又と無いでしょう。」
と言い捨て、其の儘(まま)茲(ここ)を立ち去ろうとするので、春人は引き留めようとする一心で、我を忘れた様に、遽(あわただ)しく手を延べて、イリーンの手を捕らえたが、捕えると共に忽ち我が身の過ちを悟った。

 イリーンは毒蛇にでも刺された様に、春人の手を払い退けて、真の公爵夫人の外は、真似も出来ない威高い怒りを現して、無言の儘(まま)春人を睨み附けた。何人に睨まれても.それを恐れる如き春人では無いが、唯イリーンの睨みにだけは我知らず縮み込み、急に言葉を改めて、
 「イヤ、御免ください、もしや貴女が立ち去るかと思い、我知らず無礼を働きました。」

 イリーンはまだ怒りの鎮まらない顔色で、
 「気をお付けなさい。再び私の身に指一本触る事が有れば、其の儘に許しませんよ。」
 春人はイリーンが唯公爵夫人と言う、其の名だけで我より上に在るのではなく、其の天性の品位が、又遥かに我より上であるのを感じ、これからは二度と今までの馴れ馴れしい言葉を発することが出来きず、

 「イヤ、二度と再び無礼な事は致しませんが、それにしても貴女は真に私を発狂させます。貴女には心が有りませんか。情と言うものが有りませんか。」
 訴える様に詰(なじ)ったが、イリーンの様子は少しも動かず、唯侵(おか)し難い貴高夫人の風采があるばかりで、何の返事も与えなかった。 春人は更に叫び、

 「貴女はもう忘れましたか。私が早や忘れたと思いますか。」
 イリーンは漸くに、口を開き、
 「忘れる事も覚えて居る事も何にも有りません。貴方は子爵西富春人、私は五田公爵夫人、二人の間に、何で忘れるの、忘れないのと言う様な事柄が有りましょう。全くの他人ですのに。」

 「何と仰っても忘れるはずが有りません。忘れられる様な軽い事柄とは事が柄が違います。忘れたと仰れば、私が思い出させます。」
 イリーンは再び太く眼を開き、再び賤(いや)しみを帯て彼を見下し、
 「そうです。忘れた方が貴方のお為でしょう。私の誓いだけは覚えて居ます。イリーンのこの言葉をお忘れなさるなと言った。其の復讐の誓いだけは。」

とそろりそろりと言い来るのに、春人は復讐と言う恐ろしき言葉に、その時の我が身が罵(ののし)られた数々の言葉を一々思い出したか、殆ど顔の色を失い、縮み込まないばかりの様で、
 「エ、復讐、復讐の誓い?」
 「ハイ、私は貴方の目の前で復讐を誓いました。今もその誓いを忘れません。遅かれ早かれ一度はその時が来ましょうから、必ずその誓いを忘れません。ハイ、復讐の届くまでは決してその近いを忘れません。」

 昔彼の前で誓ったその言葉に比べては、百分の一にも足りなかったが、今の言葉はその時の言葉より、春人の心には殆ど百倍にも応(こた)えた。


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