ningaikyou36
人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)
アドルフ・ペロー 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
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第三十六回 用意周到な芽蘭(ゲラン)夫人
知らず知らず一同はナイル河の岸辺近くを進むに、此の辺り一帯は布を晒すのに名を得た土地で、カイロ府その他の布問屋は、孰(いず)れも布地を河船で此の辺に送り、河水の澄んだ所で洗い晒らさせていることは、一同が前から聞いていた所であるが、河筋の数か所に其の晒し場が見られた。
色黒い此の地の婦人達、老いと若きとの差別無く、河原に布を敷き広げ、水に浸しては其の上に立ち、足で踏み洗う様は、拍子を揃えて踊っているのに異ならない。幾日の間も多く人の顔さえ見る事が出来ない一同の目には、限り無く心を楽しませる事の様に見えた。
是から又少し進むと、河に沿って数町《数百m》の間、低い人家が列(つら)なっているだけだったが、野に伏し山に寝ている人々に取っては、天の殿堂に入っている心地がしている。
スアキンの長官から得た紹介状の力で、一同は村長とも云うべき人の家を宿としたが、芽蘭(ゲラン)夫人はここでも又、先に失った與助の事を言い出し、願わくは是からナイル河を遡ぼる其の用意を整える中に、ジッダ府から彼れに関する便りが無いかと、幾度と無く語ったので、一同は唯だ夫人の天性の慈悲深さを感じ、此の夫人の為なれば、死ぬのも厭(いと)わないと迄に思った。
ナイルの河を遡るのは、第一に船を調えなければ出来ない。船は前からハルツーム市で買い入れる事に手を廻わして有るが、其の船は未だ到着していないので、為すことも無く逗留して待っているが、一同は早く内地に入り込みたいとの心が矢よりも急になり、殆ど押さえる事が出来なかった。
或時平洲文学士は、茂林画学士に向かい、
「僕は実に遠征家としての芽蘭(ゲラン)夫人の技量には感服した。流石に多年遠征の事ばかり研究した丈の事が有る。」
と言い出したので、茂林は其の仔細を問うと、
「イヤサ、若し不意に我々を困難な内地へ引き入れて見給え、初めの中は勇み進んでも、後にも先にも人家の無い所へ行き、幾日も幾日も目的無しに旅をしては、一行の者が直ぐに心細く成り、逃げて帰り度い事になる。」
「ナニ僕は決してそうはならない。」
「イヤ、君と僕とは格別サ、夫人の行く所なら何の様な所へでも随(つい)て行くが、例へば寺森医師だとか、帆浦女だとか或いは又通訳亜利などはそうは行かない。」
「ナニ彼れ等一同も早く鬼域と云われる内地へ、入り込み度いと云って居る。」
「そこだ、彼等一同にそう云わせるのは夫人の技量では無いか。
僕が最も感心するのは、此の度の道筋だ。カイロ府から直ぐに河船に乗れば好い所を、そうはせずに、先ず亜拉比(アラビア)へ寄り、スアキンから上陸してここへ来た。
その間には海も有り、山も有り、沙漠も有り、度々目先が変わり、そうして其の度に多少の苦労も有ったが、我々一同の心が自然と旅に慣れ、益々先へ進み度いと云う気に成ったのだ。詰まる所、最も我々の旅行心を引き起こす様な道筋を選んだのだ。
若し道の近いことだけを主として、カイロ府から直ぐに河船に乗って見給え、此の土地へ来る迄が一千余里だろう。それからハルツームまでが又数百里だ。毎日毎日同じ河船で何れほど飽きるかも知れず、そうして旅行の味と云う物が我々には少しも分からない所で有った。」
茂林も初めて感心し、
「成る程そうだ。吾々はここへ来る迄に先ず沙漠や高原の雛形も見、少しばかり危険の味も嘗めたけれど、その雛形が小さい為、驚き恐れる心は出ず、もっと大きな沙漠を見度い、もっと大きな冒険を試み度いと、益々深入りする気が出たのだ。如何にも夫人は吾々に深入りの心を成せる様に、最も適当な道筋を選んだと見える。」
「そうだよ。今まで遠征家は幾人も有るが、この様に旨く道を選んだ人は無い、一つはそれが為に途中で従者を失うやら様々の失敗を嘗めたのだ。」
と互いに彼是れ推量して、夫人の徳を褒めたたえたが、その中に漸(ようや)くハルツーム市から一艘の汽船を送って来た。
此の汽船は八十噸(トン)積みで、乗り込む人数は夫人以下通訳までを合わせて七人とし、外に雇われた人夫及び水夫十八人、都合二十五人とはなった。部屋を三個に仕切り、その一を夫人と帆浦女の部屋とし、その二を平洲、茂林、寺森及び通訳の部屋に充て、その三を水夫、人夫の場所となし、別に又馬を置く所を仕切り、何時でも船に飽きれば陸に上り、健脚家帆浦女を除く外一同、馬で旅をする用意にと、多くの乗馬をさえ積み乗せたのは、誠に周到な計らいと云える。
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