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野の花(前篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

           四十四  「至急に御出張を」

 貴婦人と見えるこの死骸に、何か特別に恐ろしい所があるだろうか。先に進んだ一人が飛び退いて顔を背けた様子はただごとではない。後から続く三、四人も何事かと覗いたが同じく顔を背けた。

 全くこの婦人の顔が、見るに忍びないほど押しつぶされて居るのである。何百キロと言う重い物が丁度顔の上に落ちていたのだから、勿論潰れずに居るはずはない。一目見てただ無惨の感じが起こるばかりで、誰であるか、どのような顔であるか、見分けのつくところがない。

 この時、土手の上を駆け回っている医者の一人ドクター・シンという人が降りて来た。この人は英国人で、この地に当ても無く巡り歩いて居て、丁度この汽車に乗り合わせていたけれど、幸いにその身に怪我もなく、安全に汽車から出たのだが、職業が職業だけに、直ちに他の医者と力を合わせ、死人、けが人の世話などをしているのである。

 ドクター・シンは死骸の無惨な顔を見て、一度は飛び退きそうにしたが、直ぐ白いハンケチを取り出して、死骸の顔の上にかぶせた。そうして、眉をひそめて死骸の姿を見、
 「確かに貴婦人であるが」
とつぶやき、更に「ハテな」と言って考えた。

 この人は同国人と言う懐かしさに、一月ほど前に瀬水冽を尋ねたこともある。その時に澄子にも会ったのである。澄子のふさふさした髪の毛はまだこの人の目に留まっている。もしや、この死骸が瀬水子爵夫人澄子では有るまいかとの疑いが起きた。

 「この髪の毛と言い、服装と言い」
と言って、再び顔のハンケチに手を掛け、少しその端を引き上げて、又顔を背け、
 「イヤ再び、人間の目にこの顔を見せるべきではない。こう乱れている様を人目に触れさせるのは、死人に対して罪な所業だ。よしや見たとて、顔の中に誰と判断のつく所は無い。」
と言って、元の通りにハンケチを下ろしてしまった。

 「唯このわずかに潰れずに残っている生え際を見てもーーーアア、どうやらこの疑いが当たっていなければーーー好いが。」
 やがてドクターは無言で土手の方を見上げ、一人の紳士を招いた。招かれて降りてきたのは警察の長官である。

 この人は一目見て、
 「やや、これは、瀬水子爵夫人です。貴方の同国人ですが、貴方はご存じ有りませんか。」
 「イヤ、子爵をも、夫人をも知っては居ますが、この死骸は、顔が見分けのつかないほどに潰れておりますので」
 「イヤ顔を見る必要は有りません。私は二年前から度々見受けて知って居ます。」

 死骸の顔に当てたハンケチは、後にこの死骸が葬られる時、新しい他の白布と取り替えられたが、それきりで誰もハンケチの下を見た人は無しに終わった。

 ドクターと長官とで、やがてこの婦人の持っていた、ハンドバッグを初め、ポケットの中まで検分した。中から出てきたわずかな品物は皆、子爵夫人澄子の品と分かった。名札もあった。澄子に宛てた手紙も有った。
 「父時正より娘澄子に贈る。」
と蓋(ふた)の裏に金文字を印した襟飾りの箱も有った。この上に疑うべき余地は無い。

 早速、両人でこの死骸を、駅の最も静かなところに運ばせた。そして、ドクター・シンの名を以って、瀬水冽に宛てて電報を発した。その文言は、
 「セダイ駅の付近で、夜汽車衝突のため、一大惨事起これリ。至急にご出張を請う。不幸にして瀬水子爵夫人もその汽車に乗り込み居たり。」
と言うのであった。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  
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 この汽車の衝突した頃には、瀬水家では、まだパーティーが続いていた。ようやく夜の白々明ける頃となって、帰る人は帰り、泊まる人はそれぞれの部屋に退き、主人の手が空いた。そこで冽と母御と品子との三人が残り、広間の真ん中のテーブルに落ちあった。

 余人はともかく、冽にとっては、妻澄子の顔が見えないのが、流石に物足りない心地がする。いかにこの頃の打ち続く不和のためでも、このような時には、我妻がここに居るべきはずだ。

 「ねえ、お母さん。澄子はしばらく前、頭痛がするから先に失礼すると言って、自分の部屋に退いた様子ですが、お茶でも入れて持たせてやりましょうか。」
どう言うわけだか、余ほど優しい心が起こった。察するに余り不和が長すぎたから、そろそろ反動が起こって来る頃なのであろう。

 母御;「本当に頭痛がするなら、お茶など入れてやるよりも、邪魔をせずに朝まで眠らせておく方が親切でしょう。」
 品子は例の通り嘲笑った。
 「本当に都合の良い頭痛ですこと。お客が混み合って自分の身が疲れると、主婦人の役目を捨て置いて寝てしまう事が出来るとは、アア、好いことを覚えました。私も今度からそうしましょう。」

 仮病と言わないばかりの、いわれのない言いようだ。折角冽の胸に起こりかけた親切もこの一語で消えてしまった。



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