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野の花(前篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

      四十六  「室の中は森(しん)と静か」

 「何だってこのような間違った電報など寄こすことになったのだろう。あまりな事で馬鹿馬鹿しい。」
と冽は呟(つぶや)いた。けれど、心の中では、全くの間違いとのみも、思うことが出来なかった。

 もし、彼の心に少しも気がとがめるところがなければ、彼は全くの間違いと思うに連れて、その心が平然と静かであるはずなのに、彼は間違いと言いながらも、一種の恐れを抱いている。或いは間違いでないかもしれないという思いが、間違いだと言う腹の中に籠もっているのだ。その様子は顔の不安な色から見ても分かる。

 澄子の部屋は冽の部屋と並んでいる。呟く間に早や入り口に着いた。戸の引き手に手をかけてねじり回したが、錠が下りている。実は澄子が去るときに閉ざして行ったのだ。
 「澄子、澄子、少し話があるんだが。」
と叫んでみた。部屋の中は森と静かである。

 「ここを開けておくれ、澄子。」
と今度は優しいが高い声で又叫んだ。何の返事も来ずに、ただ凍るような冷たい恐ろしさが襲って来た。冽は全身を震わせた。

 彼の心は忙しく駆け巡って、昨夜のことを考えてみた。昨夜一番終わりに澄子を見たのは、確か自分がダンス相手に品子を探して大広間に行った時である。別に気には留めなかったが、澄子は私が品子を連れてダンス会場に入るのを、青い顔をして見送っていたような気がする。

 その時にはいくらか見せびらかして、愉快なように思いもしたが、今思うとアレが悪かった。どれほどか澄子が心を痛めただろう。或いはアノような事などで、今朝この部屋の戸の開かないことに成ったかしらと、恨みとも、悔やみとも名の付けられない煩悶が少しの間に沸いて出た。

 実は其れよりもなお、酷い所を澄子に見られ、聞かれているのだ。けれど其れまでは気が付かない。もし気が付いたら、冽たる者、慙死、愧死、恨死しても足りないだろう。

 「アア、あの時限り、澄子を見なかった。アレから澄子はどうしたのだろう。」
 怪しむ気持ちが治まらないから、三度目の声を上げて、
 「澄子、澄子」
 依然として何の返事もない。いよいよ唯事(ただごと)とは思えないので、冽は顔色まで変わった。

 その所へ前の従者が、熱いコーヒーを入れて来た。これは彼の朝の勤めである。冽はこれを呼び留め、
 「この戸を押し破ることは出来ないか。余り音がしないように」と聞いた。
 「コーヒーなどは放って置け」
 このような場合には、折々出くわす。中には鍵の紛失のため、戸を破らなければならない場合も有る。

 座敷向きに使われる従者は、大抵鍵なしに戸を開ける術を心得ている。稀には代金を取って、その術を泥棒に教える者もいる。更に極稀には、手っ取り早く自分が泥棒に転業する者もいるそうだが、この術ばかりは、どの従者も自慢はしない。

 「そうですね、その様なことはした経験は有りませんが、やってみればどうにか出来るでしょう。少しお待ちください。」
と言って退いた。
 その後で、冽は戸を叩きもした。鍵穴に耳を当てもしたが、総て無駄であった。

 そのうちにあの従者は、曲がったのやら、真っ直ぐなのやら、針のような変な道具を五、六種持って来た。経験が無いと言う者が道具を揃えて持っているのも奇妙なことだが、五分と経たない内に、戸は何の音もせずに開いた。

 冽は転がるように部屋に入った。これはどうしたことだ。中には人の気配がしない。冽は第一にベッドを見たが、寝たような痕(あと)は見えなかった。血眼になって更に衣装室へ入った。ここには多少の衣類を取り散らしてある。そこそこに旅出の用意をした様子が思いやられる。

 さては、さては、間違いと思ったことが事実かもしれないと、先ほどから握ったままの、電信を読み直してみた。
 「セダイ付近」「夜汽車の衝突」「一大惨事」「至急に御出張を」
 実に恐ろしい文句ばかりである。その恐ろしさが今は身に滲みるようにこたえる。最後の一句、
 「不幸にして、瀬水子爵夫人もその汽車に乗り込まれていた。」 
 少しも疑うところは無い。これを間違いと思ったのは愚かであった。

 「エエ、何と言う事だろう。」
と身をかきむしる様にしたが、この時テーブルの上に在るあの書置きが目に留まった。駆け寄って取り上げた。そして、一度、二度、三度読み返して、又読み返した。初めはその文面が少しも心に入ってこなかったが、終には文外の意味まで理解することが出来た。

 私と品子との間の様子を嫉(ねた)むがために、家出をすることになったのか。これが、もし、二日前であったならば冽は、
 「何も嫉(ねた)まれる様な覚えは無い、馬鹿な奴だ」
と呟きもしたろうが、今は満更覚えが無いと言い切るほどの勇気は無い。

 まさか誰にも聞かれなかっただろうが、貴方と夫婦になればよかったとの言葉が冗談のつもりだが、冗談らしくなく、自分の口から出たことを覚えている。その出るまでに至った道筋、出てからの成り行きなど、自分で考えて見るまでもなく、妻が不快念を起こしたのが無理だとは、言いたくても言われない。

 冽は面色土の如しで、昔未来の英雄と言われた男子も、良心の責め苦には、かくまで恐れるかとほとんど哀れに思われた。彼は半ば泣き声となって、手紙の文句の、
 「これ限りにて貴方様のお耳に私の事の入るのは、嬉しい訃報のときと成ることと存知そうろう。」
と繰り返した。

  さては、この電報がその訃報かも知れない。イヤそれならば「不幸にして」などという文句のあるはずが無い。さては澄子は、私を恨んでこの家を出て、逃げ去る途中で死んだのか。そうすれば死に際の一念は私を恨むことにあったのだ。

 澄子が冽を恨んだのは、無理も無いこととは言え、今この苦悶の様子を見れば、その恨みは充分冽の身に報い来たものと言っても良い。



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