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野の花(前篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

    六十二 「暗い、暗い心の中」

 学校が立ってから今は数年が経た。早や良彦が十四才の年である。従って品子が冽の後妻となってからも、数年を経たのだ、けれど、品子には子供が無い。

 もし自分の子が有ったらなら、どれほどうれしいだろうとは、子の無い婦人が常に思うところで、品子とてもその通りである。今日も真夏の暑さに、昼ごろから2階の自分の部屋に籠もり、窓の風通しの良いところへ長椅子を置き、これにもたれて、だらけたようになって、そのことを考えているけれど、品子が子を欲しいと思うのは、真実に心底から子供が可愛いくてのためではない。

 やはり嫉妬の念のためだ。先妻澄子には子が有って、自分には無いために、何だか自分の位置がまだ澄子に負けているような気がする。特に澄子の子良彦を、夫冽がが可愛がる様子が何よりも目障(ざわ)りだ。自分にもし子が出来たら、冽の愛がその子に移るだろうに、イヤ、皆までは移らなくてもそれだけ良彦を愛する念が薄くなるはずだのにと、詰まるところ、人の幸いをそぐために子が欲しいのだ。妙な子煩悩があったものだ。

 このようなところに学校の名誉校長が会いに来て、下の客室に待っていると取次ぎが伝えてきた。
 「この暑さにわざわざ来るとは、急用でも出来たと見える。」
 少しうるさそうにつぶやいて、やがて衣服を正して降りて行った。

 校長は既に記したとおり、土地の教会を預る人で春田博士と言う五十歳余りの非常に穏やかな紳士だ。一通りの挨拶を済ませた後で、
 「実は学校の女子部の事務長柳川夫人と言う人が、今朝急にその郷里に立ちましたので、誰かその後任を求めなければならなくなりました。」

 「柳川夫人が郷里へ、それで、もう帰って来ませんか。」
 「ハイ、親戚が病気とのことですが、その回復と否とにかかわらず、再び戻ってくることは出来ないということで、辞職の手続きを取って行きました。」

 「後任と言って私には心当たりもありませんが、貴方には」
 「ハイどうせ無経験の婦人は雇えません。どこかの町村で子弟を預ったとか、学校を立てていたとかいう婦人でなくてはならず、私にも別に心当たりは有りませんが。」
 「何しろ大切な事柄なので、夫にも相談してみましょう。」
と冽を呼ばせた。

 間もなく冽は良彦を連れたままでここへ来た。良彦は当年十四才になって背もすらりと高く、実に愛らしい少年だ。特にその目つきなどは実母澄子にそのままとも言いたいほどで、涼しいうちに真実な心が輝いていて、そして相対的に澄子の面影を備えている。

 この子のために冽が今もって澄子のことを忘れ兼ねるのも無理はない。けれど、その無理のないところが、いよいよ以って品子の気分に障(さわ)るのだ。品子は直ぐに、不興というほどでもないが目を見張って

 「貴方、少し大切なお話ですから良彦が居ましては。」
 「春田博士の口から出る言葉で、何も良彦の耳に入れて悪いことは無い筈だ。」
と言ったけれど、良彦の方で早や遠慮して立ち去ってしまった。このようなところまで澄子の気質に良く似ていると、冽は腹の中で思う。その腹のうちが品子には鏡に写すように分かる。

 暑さのさなかといってもて博士もそうは話を急がない。良彦の去る姿を見送って、
 「大層大きくお成りになった。もう程なく中学へお入れなさらねばいけませんね。」
 「ハイ、イートンへ送る時が追々近づきますけれど、ただ一人の息子を手放すのは、心配に耐えませんので。」

 ちょうど澄子も、良彦をイタリアからこの国へ帰すと決まった時、このようなことを言ったと、品子はありありと覚えている。「イヤ、誠に堅実で、心がけの良いお子ですから、親身の監督が無い土地にお手放しなさっても、ご心配は有りません。未来の瀬水子爵として、品格といい、心栄えと言い立派な方だと誰もが噂しています。」

 勿論世辞や追従などを言う博士ではない。この人の口からこうまで褒められると、冽は自ずから顔が崩れて、うれしそうな笑みが浮き出てくる。この笑みもやはり澄子に関係して居はしないかと、品子の心は直ぐそこにまわって、人前とも知らずに悔しさがこみ上げた。

 折角苦労に苦労を重ねその母をこの世に無い者としたとしても、その子がこの世に残って居て、引き続いて父の心をその一身に引き集め、この身へは父の愛を天然自然に邪魔するようでは、数々の苦労も水の泡だと、かって、生きている澄子を恨んだ時のように、テーブルの下でこぶしを固め、手のひらへ深く我が爪あとをつけた。

 「アア、いっそこの身に、子が居ないのが幸いかもしれない。もし子が有るのに、それがこの家を相続することが出来ず、良彦のために位置を奪われるようなことになれば、良彦を殺さずには居られないところだ。本当に殺さなければ成らないことになる。」
と暗い暗い心の中で、鬼のような言葉を繰り返した。

 そうとも知らずに冽はなお博士に向かい良彦の後々などを話している。


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