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野の花(後篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

百十三 「温かい飲み物」

 窮鼠かえって猫を噛むとは品子の今の有様である。勿論心がねじれてその上に奸智に長けた女だから、決して負けきりに負けはしないだろう。必ず何とか勝敗を逆転して再び澄子を追い落とす工夫をめぐらすだろう。

 それは澄子も知っている。けれど、もうどのような目にあっても好い。良彦の命を助けさえすれば、自分の身はただ運に任せるのだ。こう考えが決まったから、なおも罵(ののし)り狂っている品子に向かい、静かな穏やかな声で、

 「私は長く貴方の相手になっていられません。ちょっとの間も良彦の様子が気遣われますから、これで病室に帰りますが、その代わり貴方へ私の決心だけは知らせておきます。」

 静かに言う言葉に返って重い力がある。どのような決心だか品子は聞いて置かない訳には行かない。聞きましょうと言う様に静かに澄子の言葉を待った。

 澄子;「もし良彦が死ねば私は長くはこの世に永らえない身ですから、今夜の事を誰にも言わず自分の胸に葬ってしまいます。そうすれば貴方は、今のままで極無難に子爵夫人として生涯を送れます。」

 品子はこれだけ聞いて、澄子の手にあるあの瓶へ、恨めしそうに目を注いだ。この瓶のため良彦が助かるのがいかにも残念で仕方が無いのだ。そして、
 「もし、良彦が助かったら」
と問い返した。

 澄子;「ハイ、もし助かる見込みが付けば、再び貴方の毒害など受けないようにしなければなりませんから、今夜の事を残らず冽に打ち明けます。そうすれば冽が自分の判断で、その後のことは良い様に計らうでしょうから、私は幾ら辛くてもそのままこの家を立ち去ります。一度死人の数に入ったと覚悟をした身の上ですから、再び子爵夫人となって貴方と争う気はありません。」
 実に少しも未練の無い非常にすっきりとした決心である。

 品子;「冽に打ち明けるとすれば、何時ごろ打ち明けます。」
 時刻まで問うて置こうとするとは実に押しの強い限りである。けれど、時刻を知ってそれまでに何か手を回す積りであろう。そうと澄子は見て取ったが、いまさら悪びれはしない。

 「明日の夜、冽が一日の仕事が済んで暇になった頃、打ち明けます。」
 品子:「其れまでは誰にも何にも言いませんか。」
 澄子:「ハイ、何にも言いません。」

 品子は口の中で、
 「あんまり薬が強いだろうと思うから親切に取り替えようとしたのを、毒害でもするように思うとは、なるほどそれが母の情かもしれないが実にひどい。」
と言い捨て、首を高く上げ、少しも普段と変わらない子爵夫人の様子でこの部屋を立ち去ろうとした。

 この様子を見ても彼女がどのように澄子と戦う積りかは大体推量することが出来る。澄子の前途は決して滑らかではない。
 けれど、澄子は、腹の中に何のわだかまりも無く、こうなればこうすると総て決心を決めているから、恐ろしいともなんとも思わない。

 戸を開いて先ず品子を出し、自分も続いてこの部屋を出た。そして良彦の病室に帰った。
 「河田夫人、余り貴方が遅いから、僕は泣こうかと思っていました。」

 恨めしそうに良彦が言うのも愛しや、
 「ハイ、お薬の用意に少し手間がかかりました。サア、これを召し上がってお休みなさい。」
 あの最後の薬を医者の指示通りの分量どおり水に落として、良彦に与えた。

 良彦は喉が渇いていると見え、うまそうに飲み干した。
薬の効き目か、それとも眠る刻限が来ていたのか、間もなく良彦は眠り始めた。何時もの穏やかならない眠り方ではない。

 母澄子とは知らない河田夫人の手を持ったままで、疲れた人のように眠り始めた。アア、これで助かるのだ。河田夫人は心の中で天に感謝した。

 けれど、握らせている手を引けば直ぐに目を覚ましそうに思われるから、身動きさえしないように、ジッと枕元に座っている辛抱は母でなくてどうして出来るだろう。イヤ、母でも普通の母には出来はしない。

 良彦の眠り始めたのが夜の一時であった。四時にになると、誰だか外からソッと病室の戸をあけて中へ首を出した。これは父の冽だ。冽は気遣わしくて、夜の明けるまで寝て待って居られないため、静かに起きて見に来たのだ。

 河田夫人は片手の指を自分の唇に当て「静かに」との合図をした。そして冽が抜き足で近寄ってくるのを待ち、「眠りました。」とささやいた。冽は無言で河田夫人を拝むようにして又退いたが、これから間もなく夜は明けた。

 けれど、窓の外に鳴く鳥の声も、朝日の影も病室の中には入らない。良彦はまだすやすやと眠っている。七時になると冽が再び来た。今度は河田夫人に飲ませるため自分の手で興奮の薬を調合した温かい飲み物を、器に注いで持って来た。

 けれど、夫人の手は良彦に握られてらせて動くことが出来ないのだから、冽は自分の手でその器を夫人の口の所まで持って行った。冽にこのように親切を受けるのはほとんど十年ぶりである。そして、これが親切の受け納めであろうと思うと、何もかも諦めた身ながらも、腸(はらわた)の底から涙が押し上げてくるような気がする。

 冽;「サア貴方が疲れては大変ですから、一口お上がりなさい。」
 やっと聞こえるほどの小声である。飲まなければかえって怪しまれる。一口飲みには飲んだが悲しさにふさがったのどへはヤット通った。

 「何ご病人さえ助かれば、私の体などはどうなっても構いません。」
 同じ小声で返す言葉に、千万無量の辛さがこもっているとは冽も思いも至らない。ただこの夫人が、今に始まった事ではないとは言えその身に代えても病人を助けたいと決心している親切な様子には、有り難さよりも深く尊敬の念を生じて、冽は首を垂れたまま引き下がった。

 後で夫人の顔には涙が雨のように注いだ。そして夫人は後のことを考えたが全く一寸先は闇である。今夜いよいよ我が素性を現して、昨夜品子との間にあったことを打ち明ければ、冽がどのように思うだろう。この身はどうなるだろう。

 たとえ良彦は今の眠りで助かる見込みが付いたにしても、これを見捨てこの家から立ち去るのは実に辛い。考えれば考えるほど澄子の心は又乱れるばかりである。

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