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野の花(後篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

百十七 「綺麗になってしまうのだ」

 食事を終わって、直ぐ自分の部屋に帰ったが、再び品子の様子は、何となくいらいらして落ち着かなくなった。いよいよ人を殺そうと思えば流石に心が騒ぐところが有ると見える。口の中には、  
「今日の日が暮れないうちに、綺麗になってしまうのだ。綺麗になってしまうのだ。」
との言葉を何度も繰り返している。

 この世に澄子が無くなってしまうことを、「綺麗になる」と言うのだと見える。今日の日の終わらないうちに、果たしてどのように綺麗になるだろう。

 かくして、腰元に着物を出させて着替えた。そして言い付けた。「私は少し気分が悪いので、殿様は休むが好いとおっしゃるけれど、清い空気を吸えば快くなるだろうから、買い物がてら町まで行って来るが、後で殿様にも誰にも、もし聞かれたら、寝ているように言っておくれ。」
 そうして厩(うまや)に降りて行った。

 先ず御者を呼んで馬車の用意を命じると、御者は当惑気味に、あいにく間に合う馬が無い事を答えた。品子は何時もより非常に短気に、
 「それは知っているよ、けれど先だって殿様がお買いになさった当歳の駒が二匹有るではないか。あの二匹を私の馬車に付けておくれ。」

 御者;「まだ乗り慣らしさえしていない当歳を馬車に付けては殿様にお叱りを受け、私は追い出されます。」
 品子は鋭い声で、
 「私の言葉に背いては放逐されないとお思いか。」
と詰問のように言った。背けば今すぐに放逐するという意が見えている。

 御者は嘆息しながら当歳を引き出して来て、軽い品子の馬車に付けた。けれど内心は心配で仕方が無いと見え、額に汗をかいている。
 品子;「サア、直ぐに乗るから町までやっておくれ。」

 御者;「少しお待ちください。執事さんにそう言って、ちょっと殿様にお断りして置きますから。」
 品子は又怒った。
 「そのように手間取っているなら私は一人で行く。御者には及びません。」

 御者は仕方がなく御者台にのり、そろそろ馬車を進め始めたが、口の中では何か、
 「長いものには巻かれろだ。」
と言うような言葉をつぶやいている。
 馬車が公園にかかると、公園の番人がこれを見た。

 「アノ御者は気でも違ったのか。きっと新聞に出されるような事件になるわい。」
と言って見送った。実に乗り慣さない馬を馬車に付けるのは、危険千万である。それに自分の主人を乗せて行くとは、気が違った御者ででもなければ出来ないことだ。

 馬は蹴ったり跳ねたりする。ようやく一匹が素直になれば他の一匹が狂い始める。手綱に束縛されるのは、いやだと自然の独立心を発して謀反を企てるのだ。時には前に進まずに後ろに下がることさえある。公園の中ほどまで行った頃には、御者の手袋には大きな穴が開いた。

 けれどそこは熟練で、どうやらこうやら操って公園を通り越し、ついに小山を登り始めた。やがてその頂上へも無事に達した。サア、これからが本当に骨である。馬車で下り坂ほど危ないものは無い。

 ここをさえ下ってしまえば後はたいした危険も無いだろうと少し御者の心に見込みが付きかけた頃、馬は道の向こうの方にある積み重ねたわら束を見た。実に馬が見慣れないものを見て驚く臆病さは、時によると人間の心には理解できないほどのことが起こる。

 二匹の馬が同時にわら束に驚いた。そして同時に横にそれて道の無いところを一散に駆け始めた。中で品子は天に付いたり地に付いたりしている。御者は一生懸命に制御したが、すればするほど馬は狂う。中々手綱くらいの力に合うものではない。

 見るうちに御者の手は手綱にすれて血まみれとなり、馬車の戸なども、もう砕けるばかりとなった。公園の番人が言ったことは当たった。狂い狂って、走り走って、ついに馬も車も御者も品子も、一塊となって一丈(3m)あまりもある崖から真っ逆さまに転げ落ちた。

 無残とはこのことだ。馬車は見る影もなく砕け、そして御者は、イヤ、御者も馬も品子も即死したか、さもなければ気絶したに違いない。馬の一匹は壊れた馬車のしたから首だけ上げてもがいたが、そのほかのものは姿さえ見えない。

 近辺の畑にいた百姓どもの中にこの様子を見た者がいた。声をあげて他の者等を呼び集め、やがてここに駆けて来た。一人、又二人、とうとう七八人になった。

 この者共が力を合わせて、ようやく馬車を取り除いたが、馬の一匹は即死している。わずかに生きている一匹も痛ましいほどの怪我で、余りかわいそうだからと言ってこの後射殺してしまったそうだ。

 御者も即死だ。そして品子は、これも即死のようだが、少しの息が通っているので、百姓のうちの二、三人は、医者へ、瀬水城へ、村の方へ、銘々身を逆さにして馳せて去った。残るもの共等はいずれも顔に一方なら無い憂いを浮かべた。

 甲;「まあ何と言うことだ。瀬水城の先の奥様も、どこか外国で矢張り、怪我で死なれたと言うぜ。」
 乙;「そうよ、イタリアで汽車の衝突で死んだのだ。俺は執事の家の台所女から詳しく聞いたよ。」

 丙;「本当に気の毒なことだなア。一度あることは二度あると言うが。」
 甲;「殿様がどれほど嘆くだろう。若旦那も病気で今日明日も分らないと言うじゃないか。」
 口々に弔意を表しているうちに、村の者も大勢来る。医者も急いで来た。

 そして品子の体だけを、往来のところに待たせてある医者の馬車に静かに運んで行って担ぎ入れた。品子は死んではいないが、ただ死んでいないと言うだけのことで、幾時間もしないうちにこのまま事切れになる大怪我であることは医者の顔つきでも分っている。

 してみると先刻御者を叱ったのが彼女の言葉の吐き納めであったと見える。可愛そうにこのように「綺麗になるとは」、誰も思いもよらなかった。

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