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野の花(後篇)

トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

百二十三 「大団円の上」

 話は変わって、父に連れられ転地した良彦は案外病後の回復が遅かったと見え、この年は遂にに帰らず、寒さを経、暑さを経、翌年の秋となってやっと帰って来た。彼は早や十五歳である。

 十五歳となってはいよいよイートンの中学校へ送らなければならない。父冽に取ってはこれが何より辛い。後妻の品子も既に亡くなり、先妻の形見として片時も、そばを離したことの無い大事の子は学校へ行ってしまう。

 後にただ自分一人、広い瀬水城に残って、味気ない月日を送らなければならない。
 「およそ人生に「寂しい」とは、そばに親しむ人が無くて、そして後の楽しみが少しも無い場合である。」
 冽は後のことを考えてみるに、再び我が身に楽しみと言うものの来る時は無い。

 少なくても良彦が中学から大学まで卒業し、嫁を迎える時が来るまで、瀬水城は我が身の上と共に全くの大砂漠も同様である。それまでの月日を、どうして送って行けるだろう。

 せめて品彦がそばに居れば少しは気も紛れるだろうと、家に帰る少し前に、旅行先から手紙を出し、品彦を呼んで置けと命じて置いた。

 きっと家に着く時には優しい河田夫人が、品彦を抱いて迎いに出るだろうと、このように思い、幾らか心が慰むように感じていたが、品彦は居るけれど、冽の母御に抱かれている。河田夫人のほうは見えない。

 勿論河田夫人が見えなくても失望するはずは無いが、それでも何だか物足りない。物足りないとは自分の心にさえ白状はしないけれど、なぜここに居ないのだろう。どうしただろうと、何となく怪しまれる。と言って、雇い人も同様な者のことを、帰る早々問うわけにも行かないことは無いが、問い難いけれど問うてみたい気がする。

 母御はその気を察したのか、
 「この子も非常に河田夫人になじんだが、あいにく夫人は少し気分が悪いと言ってプライトンにこもっているが、大した事では無いのだから、そのうち来るでしょう。」
と言われた。

 冽はただ「そうですか。」と言って自分の部屋に退いたが、果たしてこれより後は実に寂しくて身の置き所も無いように感じられる。河田夫人でも来てくれればと、時々思い出すけれど、その度に自分で、馬鹿なことを思い出すものだと笑い消してしまう。ほとんど冽が笑うのは一人でこのように河田夫人のことを笑い消すときだけだ。

 ある日も、余り所在の無さに、公園に歩み出た。今は紅葉の盛りである。この公園には数百年前から老楓樹が、ほとんど日も通さないほどに茂っている所があるので、その下に巡って行った。

 ここは丁度その昔、先妻の澄子が、自分の郷里樫林の、或る所に似ていると言って時々来ては腰を下ろし、詩歌集などを読んで居た所である。その頃のことを思い出すと何となく昔懐かしい思いがして、ツイ腰掛け台に腰を下ろしたが、寒からず熱からぬ秋の気候にいつか心もうっとりとして、自分のほかの何事もすっかり忘れ、様々なことを思い出した。

 思う内には次第に昔へ昔へと心が帰って行き、インドで武官をしていた頃のことから陶村時之助という勇ましい少年が戦死したこと、その死に際に父と妹への言付けを頼まれ、この国へ帰ってから、遺髪を持ってその郷里へ尋ねて行った事、それからその妹澄子の美しさに驚いて遂に夫婦となるに至ったまでのことなどを考えると、まるで夢のように身も遠くなって来る。

 実に我が身の生涯に、最も楽しいときと言うのは澄子を見初めてから死に別れるまでの間であった。嗚呼、青春は再びは返らない。最早このような楽しい月日はこの身には無いのだと、果ては限りも無い感慨を催して、我知らず「オオ、澄子」と一声漏らした。

 「ハイ、貴方」と答える声が後ろの方から聞こえた。清い穏やかな、確かに澄子の声である。冽は溜息をを漏らして、
 「アア、思い詰めると澄子の声が聞こえて来るような気がしてくるワ。愚痴だ、愚痴だとは言え、生涯の愛を加えて、そしてアノ様に不幸な別れになったのだもの。誰だってこの身と同じ身の上になれば、このように心が迷う。何も愚痴だとて笑われることは無い。」

 こう言って再び澄子のことを思い続けると、またも同じ清い声で、「貴方」と呼ぶように聞こえた。
 「アア、心の迷いと言うものは恐ろしいものだ。神経症にでもならなければ好いが。」
と言い、しばらく首を垂れて、顔を両手のひらに埋めるようにして、更に深い溜息を漏らしたが、今度は何やら絹服のそよぐような音が聞こえ、そして今の声が又一層近くなって、
 「澄子が帰ってもよろしいですか。」
と、愛の溢れるような口調で問うた。

 冽は静かに顔を上げて見た。この時、我が目の前に、少し離れて立っている姿に、冽が驚きのため即死しなかったのは、実に不思議だ。いや、全く神の恵みででもあろうけれど、冽は「あっ」と叫び、顔に我慢できないほどの恐れを浮かべ、腰掛台に跳ねられたように飛び上がって、起立した。

 全く自分が発狂する時が来たのだと思った。死んだ澄子が昔に良く似た服を着け、昔に良く似た姿で、我が目の前に立っている。

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