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野の花(後篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

        八十六 「二の語を継ぐ力も無い」

 「貴方に弟とは」と、息も切なそうに問う河田夫人の言葉に対し、良彦はあたかも自分の手柄でも話すように、「全く僕の弟ですよ、子爵夫人に小さい男の子が出来たのです。」と自慢そうに答えた。

 アノ品子に子が出来たとは、よく考えれば不思議でも無いけれど、実に意外である。誠だろうか。何かの間違いではないだろうか、と河田夫人は一時このようにまで思い、二の語を継ぐ力も無い。

 顔に深い深い苦痛の色を現したまま、しばらくの間、唖然として居た。声も言葉も出ないのである。
 けれど、悲しいかな、間違いでも何でもない。全くの事実である。品子に丈夫な男の子が出来たのだ。

 そもそも品子が別荘に行ったのも、身重になったためである。彼女は日頃は子の無いことを、この世に唯一つの不足として深く悲しみ、子が無くては何だか前妻澄子に負けるような気がして、その嫉妬深い心でこれをさえ、嫉妬の種にしていたほどだから、

 身重になると大喜びで、どうしてもこの子を無事に世に出さなければならないと思い、もし忙しい我が家に居ては、どのような間違いで自分の健康を損じ、従って胎児まで弱くするかも知れないと言って、早速別荘に引っ込んだのだ。そうして、出産してから帰って来たのだ。

 ついでだから、ここに先ず出産及びその子についての事柄を記して置こう。世にはひどく産の重い女と軽い女がある。又産後の肥立ちのひどく早い女とひどく遅い女がある。

 先妻澄子などは、産の床についている間に、散々に今の品子にいじめられ、身に触るような仕打ちばかり受けたため、年を経るまで、本当の元の体には戻れなかったことは読者の知るとおりである。

 ところが品子は大違いだ。憎らしいほど産が軽く、そして、その後がケソケソと嘘のように肥立った。まるで犬か馬のようだ。兼ねてから出先で乳母を雇って置いたので、生まれると直ぐにこれに抱かせ、わずか五日目に別荘を立って帰って来た。

 立派な馬車を、静々と歩ませて、その中に夫婦の外に見慣れない婆やが赤子の顔を出して抱き、相乗りして帰って来た様子を見て、出迎えの家来どもはほとんど人形を抱いているのかと思ったが、

 何となく夫婦の顔に喜びの浮かんでいるのを見て、人形で無い事を知ったが、中にはうすうす様子を察している者も有って、機転を利かせ直ぐに、「コレ、皆でお祝いを申し上げないか、ヘイ。お殿様、ヘイ奥様、おめでとう御座います。」と音頭を取るように申し上げると、我も我もと、皆お祝いを申し上げた。

 直ぐにこの噂が、まるで電信でも掛けたかのように、辺りの村中に広がった。村々は総代を立てる、教会堂は祝賀の鐘を鳴らす、大騒ぎである。

 家に入って先ず広間に落ち着くと、駆け込んで来たのが良彦である。「お父様、お帰り。」父の首にすがりつくと、「こちらよりも、先ず子爵夫人に喜びを申しあげなさい。お前の弟を連れてきたぞ。」と言われて、

 「エ、僕の弟」と驚き叫び、すぐさま、婆やの抱いているのを、覗き込み、「これが僕の弟、嬉しいなア、嬉しいなア」と言って小躍(おど)りした。

 果たしてこの弟が出来たことが自分にとって、小躍りするほど嬉しいことなのか否かは、後でなくては分からないけれど、そこまでは思い至らないのが流石に子供である。

 小躍りして、又再び覗き込むと、そばから品子があわてて「アレ、赤ん坊のほっぺに傷でも付けてはいけません。生まれたばかりだもの、成長した良彦さんの頬っぺたとは違いますよ。」と妙にからんで良彦を制した。

 女と言うものは、子ができるとこれだけ強くなるのだ。子の出来ないうちは、陰でどれほど良彦をいじめても、夫の前で剣突を食わせるなどと言うことは微塵(みじん)も無かったが、今は公に叱るようになった。

 少しの事のようだが、その実は大違いだ。これで、もう自分がこの家の主権者だと言う心が、言わず語らず腹の中に幅を利かしているのだ、夫冽は苦笑して「まさか良彦が頬を当てたとて赤ん坊の頬に傷が付くこともあるまい。」と言いながら、自分で立って赤ん坊の頬に軽く唇を当てた。

 こうしてちょっと妻の機嫌を取り、妻と良彦との間を調和するのだ。人の夫となるのも中々微妙なところに苦心がある。
 これに付けても、イヤ、こう赤ん坊の出来た様子を見るに付けても、冽は先妻澄子の産後の頃のことを思い出さないわけには行かない。

 澄子が良彦の名へ一字だけ自分の父親の名にある「時」の字を加えたいと言ったのが、澄子の初めての願いで、それを拒んだのがそもそも澄子に不快の念を抱かせる、初めての拒絶であった。

 男ながらも微妙な感情を持っている冽だけに、この辺の事までまだ気にしているのだ。これをツイ思い出して、何だか憂いの色を顔に浮かべた。

 勿論、その色は直ぐに消えたけれど、良彦だけは見て取った。良彦は今品子に叱られたのを、別になんとも思いはせず、ただ、弟が出来たという喜びに心が満ちているけれど、父のこの色を見て取り、これを慰める心と見え、

 「お父様、こんな嬉しいことを、人に知らせてもよいのでしょう。」
 父;「よいとも」
 良彦;「では僕は知らせてきますよ。」
 父;「誰に」
 良彦;「河田夫人に、夫人がこれを聞けばどれほど喜ぶか知れません。夫人はこの家のことを自分の家のことのように喜んだり心配したりしますもの。」

 父は黙ってただうなずきながら、腹の中で「自然な慈善者は他人の悲喜を、自分のことのように感じるものだ。」とつぶやいた。

 良彦は振り返りもせず、全く河田夫人を喜ばせることのように思い、一散にその家に向かって、駆けて行ったのだ。



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