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野の花(後篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

       九十七 「肖像絵に成代わって」

 これを、この上耐えていれば、全く発狂するかも知れない。見る間に河田夫人の眼は良彦の顔に注いだまま動かなくなってしまった。良彦は危ぶむような語調で、

 「貴方は妙に私の顔を見ますね。アア、僕が泣いたから僕を臆病者と思ってですか。僕は決して臆病者ではありませんよ。相手が子爵夫人でなければ、いや、お父さんの妻でなければ、喧嘩(けんか)でも何でもしますけれど。」
 夫人は初めて気が付いたように、
 「何で貴方を臆病者と思いましょう。年齢も大きくは無いのに何事も良く見極めて我慢なさるのは感心しています。」

 良彦;「喧嘩するわけにも行かず、僕は黙って自分の部屋に帰り、阿母(おっか)さんの肖像画の前で泣いていました。生きた阿母(おっか)さんなら、貴方の言ったとおり僕を守って慰めてくれただろうけれど、肖像画では、いくら僕が泣いたって慰めてはくれない。生憎(あいにく)お父さんも遠乗りに出かけて家には居ないから、それで貴方の所に来たのです。」

 夫人は真に断腸の思いである。
 「貴方の母は私ですよ。良くこの顔を御覧なさい。」
ともし打ち明けて言うことが出来たならと、いたずらに身をもがくのみだ。

 全くこの時、河田夫人がこの心を耐えきることが出来たのは感心するばかりだ。歯を食いしばり、手を握って耐えたのだ。本当に必死だった。そして、しばらくして窓のところに行き、外を眺める振りをして心を落ち着けていたが、勿論充分に落ち着けることは出来ない。

 更に何となく震える声で、
 「このような時には何時でも私の所に言いにお出でなさい。この上に、更に辛いことがあれば、決して黙っては居られないから。」と断固たる口調である。
 良彦;「黙っていないと言って、どうするお積りですか。」
 夫人;「どんなことをしても、貴方を救って上げます。ハイ、あの肖像画に成代わってきっと貴方を守ります。」

 夫人の心中は明白である。やむを得ないなら肖像画に成代わるとまで決心したのだ。良彦は深い意味は悟らないが、大いに心を強くして、
 「貴方がそう言って下されば、もう何にも辛いことは有りません。これから帰ってお父さんにも黙っていましょう。その代わり今度このようなことがあったらーーー貴方がきっと守ってくれますね。」

 夫人;「守りますとも、直ぐに私のところに駆けつけていらっしゃい。」
 良彦は来た時とは大違いで、気も軽そうに帰って行った。後で夫人は長椅子に顔をうずめて泣いた。

 「エエ、このようなことと知ったら、このようなことと知ったら」
とただ後悔を繰り返す声だけが、泣き声の中に途切れ途切れに聞こえた。実に悔やむのももっともだ。

 初め夫人が家出したときの考えは、ただ自分の一身を苦しめさえすれば、夫も我が子も総て幸せになれると思ったのだが、今で見ると、夫もあまり幸せになった様子は無く、私のことを忘れかねているだけでなく、良彦に至っては、非常な不幸の境遇に陥っているのだ。

 二言目には亡き母のことを言い、母さえ居れば瀬水城は捨てても良いとまで思っている。これで見れば、私の所行は良彦に対して非常に悪いことをした。良彦の受けるべき母の愛を奪ったのだ。母の守護を奪ったのだ。一言で言えばわが子の母を奪ったのだ。

 そして恐ろしい継母を作り、その意地悪な手の下に、わが子を投げ込んだのだ。自分一身を苦しめるしぐさが我が子を苦しめることになった。全く私の行いは、女として、妻として、母として、この上も無いほどひどい間違いであった。

 と言って、いまさらこの間違いを取り消す方法は無い。死んで済むものなら、死にもしよう。けれど、死んだとて間違いだけは残るのだ。死ねば間違いが間違いのままで終わり、わが子を意地悪な手の下に投げ込んだままで終わるのだ。実にこのような苦しい身の上は外にはない。

 そのうちには再び良彦が、品子の意地悪を訴えてくるだろうと、二、三日心待ちに待ったが、来る様子は無い。さてはアレきり先ずうまく治まったものと見えると、少し気を安くしたのは少しの間である。

 二、三日が、一週間、果ては二週間も経ったけれど、良彦の姿は見えない。今日は、今日は、と思い学校の授業時間が終わってから、門に出て、夜まで瀬水城の方を眺めるのは毎日の事である。

 そのうちに丸一月が経ってしまった。今まで良彦が、いくら長くても十日以上この家に来ないで居たことはない。どうしたのだろう、もしや病気ででも有りはしないか。もしや、意地悪な品子が、無理に捕らえて外に出さないことにしたのではないだろうかと、ありとあらゆる心配事を自分の心に思ってみては、それを事実のように想像して、そして気をもんだ。

 総て母の心はこのようなものだろう。いずれにしても、このままのんびりとして待っては居られない。今日もし来なければ、自分で瀬水城に出かけて行って、人に怪しまれようと、とがめられようと、構わないからと、いよいよ思いを決めようとした日の黄昏にやっと来た。

 来は来たが良彦ではない。その父の冽である。冽が用ありそうになぜ来た。見ればしおしおとして元気も無く、非常に心配をその顔に浮かべている。アア、これは、きっと良彦の身の上に何か大変なことがあるのだという思いを、夫人は早や胸によぎらせた。



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