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野の花(後篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

    九十二 「しみじみと可愛い裏面(うら)」

 「貴方はどうかなさったか」
と品子に問われて、河田夫人は、これではならないと気を取り直した。そして単に「イイエ」と答えた。けれど心には様々な思いが湧き起こって、人に見えるか見えないかは知らないが、自分では震えが止まらないような心持だ。

 全体品子がこうまでも、良彦を邪魔にするようでは、良彦の後々がどうだろう。弟の品彦が成長すればするだけ、益々憎まれるのは必定である。外の人に憎まれるのとは違い、この品子に憎まれる辛さと言うものは、この身に好く覚えがある。

 アノ頃は私の方がはるかに目上だったけれど、あのようにいじめられた。更に目下の良彦をいじめるくらいは、石を以って卵をたたきつぶすよりも簡単なこと。

 ことによると良彦は、攻め殺されるまでにも至りはしないかとこう思うと、いっそ自分の本性を名乗り、品子と地位を争わないまでも、良彦だけは自分の手元へ引き取ることにでもしようかと、このような考えも出る。けれど、勿論それは出来ない。ただ運を天に任せ、自分は相変わらず余所ながら良彦を見張っているだけである。

 心はこう決めても、このほかにも一つ、河田夫人には、胸も張り裂けるような、辛い思いが有る。辛いと言うより空恐ろしいのだ。 名乗るにしろ名乗らないにしろ、この身がこの家の正当な夫人であって、良彦が正当な嫡子である。

 そうすると、品子の身は、前にも思った通り、私通者と言うのに過ぎないが、その私通者の腹に宿った品彦は何者だろう。言うまでもなく私生児である。人間社会に人間として籍を得ることが出来ない、父なし子である。

 母品子が知らず知らず私通者の位置に陥り、その身を辱めていることは、それは当人の心柄から出ることで、それほど気の毒ではないとしても、今、我が膝に抱かれているこの品彦は清浄無垢の心である。

 善も悪も何にも知らない。この何にも知らない者を、哀れむべき私生児、人間社会の無籍者に生まれさせたのは誰だろう。これは私の罪である。私がなお生きていることをこの世に隠し、死んだ者として身を隠したためである。

 世に何の手柄も、もたらさないまでも、せめて悪事だけはしないようにしたいと日頃祈っている身が、罪も罪、人一人を無籍の身に生まれさせ、生涯人間の仲間入りすることの出来ない者としたかと思うと、河田夫人は辛いとも恐ろしいともたとえようがない。ただ胸苦しく感じるばかりだ。

 これがもし、品子への復讐ならば、あんまり悪道に過ぎたのである。このような性質の復讐を望みはしなかったのに、今更恨めしいほどにも思う。けれど、最早仕方がない。なるべくは私生児ながらも私生児でなくて済む様に、何処までもこの身の本性を隠しおおせて、終わらなければならない。と、前からの決心ではあるが、又も心のうちに繰り返していた。

 品子はそうとは知らず、いくら柔和な婦人にしてもあんまり口数を聞かなさ過ぎると思い、又も話の糸口を開き、
 「私は子供をこれほど可愛い者と知りませんでしたが、自分の子が出来てからしみじみ分かりました。」

 それは真に子供が可愛いのではない。ただ、自分の子が可愛いのだ。しみじみ可愛い裏には、先妻の子がしみじみにくい心が有る。つまり、自然に愛と言う心のごくごく乏しく生まれている身が、その乏しい愛をただ我が子に集めてしまったため、残るのは憎しみだけとなった。

 決して愛の分量が増えたのではなく、どちらかと言えば、愛の分量が出来なくなっただけ、初めより一層悪いのだ。河田夫人はやむを得ず、
 「ハイ、我が子の可愛いのは誰も自然です。」
と答えたばかりだ。

 品子の思ったほどには話は進まない。更に品子は、
 「品彦とは呼びよくて、好い名前ではありませんか。」
 河田夫人が返事が出来ないでいるうちに、ここへ冽が入って来た。

 我が夫冽の、この子を愛する様子を見せられなければならない。品子をいたわりなどする様子も見なければならない。河田夫人は益々辛い。けれど逃げ出して去ることも出来ないから、波打つ胸を押し鎮めて控えていると、

 冽は先ず品子のそばに寄り、
 「オオ、そなたは寒気でもしないか。顔の色がいつもではない。」
と言い、落ちかけているショールを後ろから引き上げてやった。そして、今度は河田夫人の前に来て、膝の赤ん坊の頬をなぜ、はては自らうつむいて、その頬にキスをした。

 ちょうどその昔、良彦が生まれた時にした通りである。河田夫人たる者、いくら心を静めていたとて、これが平気で、何の感じも無しにいられようか。




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