巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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如夜叉(にょやしゃ)

ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2012. 4.7

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        如夜叉 (にょやしゃ)      涙香小史 訳
      
                     第一回    

 巴里府パチノール街に西山三峯(さんほう)というかなり名高い彫刻師がいる。若い頃妻を失い一人娘の亀子というのを男の手一つで育て上げ、これに良い婿を迎えて、老い先を送ろうとそれだけを楽しみに亀子を愛しむ事は一通りでない。自分は今年五十二歳にして亀子は十八の誕生を先月済ませたばかりだ。

 そもそもこの西山三峯老人は貧家に生まれた人で、身に十分な教育は無く言葉使いさえやや下卑た方だが、心は小児の清いようによく悲しみよく喜び又よく笑いよく怒る。胸に一点の邪念なし。

 唯不思議とも言うべきはもって生まれた天然の器用にて、美人の姿を彫(きざ)む時は生きて笑むかと疑われ、勇士の像を作るときは凛(り)りしさが自ずから備わる。昔東洋にいたと聞く左甚五郎には及ばなくても、なにしろ近頃に珍しい名工なので、鑿(のみ)一挺にて身代(財産)を起こし、今は裕福の身の上となり、婚礼する時の資金にと言って亀子の名前で銀行に預けている金だけでも二十万フラン(現在の約3億円以上)に及ぶ。

 自分も寝ていて暮されるほどだが、ただ亀子の財産を作ると勇士の石像を彫刻するのがこの上ない道楽で、今もこの暮の展覧会に出品し、一等賞を得ようと義勇兵の姿を作り掛け、細工場に立たせてあるとか。たった今、三峯老人はその日の仕事を終わり細工場から出で来た。日が暮れて間もないと思っていたら夏の夜は短くてもう今は八時だ。

 亀子や爺(ちゃん)に余所行きの着物を着せてくれ。亀子という令嬢は父が夜出るのを好まないと見え、
 「阿父(おとつ)さんお止しなさいな。宴会の席には出たことも無い癖に。礼儀を知らないと言って又笑われますよ。」    
 (三)「ナニ気遣う事はない。自分の無作法は通り者だ。一年に一度の親睦会だから行かせてくれ。遅くても十一時半には帰って来る。」

 (亀)「四十年も五十年も昔の同窓生に会ったとてつまらないでは有りませんか。貴方のお帰りが遅いと心配でなりません。」
 (三)「イヤ、直帰るからそう言わずにナニそれも学校同窓生に会うなんてその様なことではない。俺をこの懇親会へ入れてくれた旦那がナ今夜来れば得意筋を世話してやると仰ったから行かなければ悪いよ。旦那の親切を無にするというものだ。」

 亀子もこの言葉には反対しかねたのでそのまま奥の間に入って行って父に着物を着させながら口の中で、
 「もうお得意など無くても好い。大抵の人は是だけの身代が出来れば隠居するのに」
と呟いた。年寄りの早耳これを聞き咎(とが)めて、

 (三)「イヤイヤそうではない。婚礼する時になって見ろ。婚資が多いと婿殿に肩身が広い。幾らあっても有り過ぎのないのは金子(かね)だから、お得意は大事じゃ。」
 亀子は少し恥らうように両の頬を赤らめながらも異様なる笑みを含み、
 「オヤ、私を婚礼させるお積りなの。」  

 (三)「そうとも、今直でないにしろ女と生まれたからには亭主を持たなければ。尤(もっと)も亭主にそなたを連れて行かれるのは寂しいけれど。」
 (亀)「ナニ私の選ぶ亭主は貴方を後に残して私を連れて行きやしませんよ。この家は広いから引っ越して来て一緒に住みます。阿父(おとつ)さんは細工場が下にあるから下に住み、私等夫婦は二階に住み、そしてただ一人の伯母さんは三階に住まわせます。三階なら景色も好し。」

 (三)「ヤヤ、何だとそなたはもう心で亭主にする男を見定めてあるような事を言うぞ。事によると俺にも知らさず勝手な約束までしてありはしないか。」  
 亀子は恐々(こはごは)、
 「もし約束をしてあればどうします。」
と父の顔を覗き込む。父は驚いて跳ね返り、
 「何だ、約束をしてあればどうする。この畜生もう約束をしやがったな。」
と思わず聞き苦しい言葉が出るのはこの老人の地金で、必ずしもそれほど怒ったためではなく、咄嗟の驚きのあまりでも有ろう。

 (亀)「アレ阿父さん、又しやがったの畜生のと荒々しい言葉は止してください。近所の人が笑います。 」
 (三)「荒々しい言葉よりさ、詰まらない男を亭主に持てば、それこそ世間の笑い草だ。手前はイヤ手前じゃない和女(そなた)は何処でそのような野郎じゃない旦那又違った男を拾って来た。 」
 (亀)「拾いはしません。捨苗夫人の家で時々会うんですよ。 」
 (三)「道理で捨苗夫人の面会日といえば何事を差し捨て置いても行くと思った。この前の面会日には俺を一緒に連れて行こうと勧めやがりはせぬ勧めてさ、この蓄。」

 (亀)「アノ時一緒にいらっしゃれば貴方も私の婿に逢うことが出来ましたのに。」
 (三)「アレアノ通りだ。決まりもしないうちから婿だと抜かす。コレコレ亀子、まあ待ってくれ。爺(チャン)は何も世間の分からず屋のような無理なことは言わないが、次第によっては不承知も言わなければならない。全体二十万フラン(現在の約3億円)からの婚資のある娘へうまいことを言ってその機嫌を取るような男は先ず疑うのが当然だ。人を見れば泥棒と思えという世の中だから、ササ誰だその男というのは、何者だ、職人か、彫刻師の息子か。 」

 (亀)「その様な者では有りませんが、かねがね三峯老人の名を慕い貴方の技芸には陰ながら感服していると言いました。 」
 (三)「俺の技芸に陰ながら感服だと、ソレ見ろ、恐ろしいおべっかを抜かす奴イヤ言う男だ。俺は口数聞かずに良く働く若者が好きだ。その男の職業は何だ。」
 (亀)「職業とては有りません。外務省の外交官になる積りであったのが、それを止めて今では文学に身を委ね昼間は歴史上の研究を主にし、夜は社交界に出入りしてソシテ先祖から伝わる財産の利子だけが年々一万二千フラン現在の千八百万円上がるので、それを暮らしの元にしていると言います。 」

 (三)「ホホー、大層難しいな。俺には何のことかさっぱり分からないが、町人の言葉に直せば、つまり男ぶりが良いということだろう。 」
 (亀)「そうじゃ有りませんが、男振りも大層好くてそれで。 」
 (三)「少しも申し分がないと言うのか。言う事は大概決まっていらア。」
 (亀)「ナニ、唯一つ申し分がありますよ。」
 (三)「申し分があるのは迂闊に付き合われない。手癖でも悪いのだろう。」

 (亀)「その様な申し分では有りません。肩書きを持っているのですよ。」
 (三)「フム、肩書きを、牢破りとか何とか言う。」
 (亀)「貴方も本当に分からず屋で困りますよ。伯爵という肩書きを。」
 (三)「ウム、伯爵かと理解したような返事をしたけれど、考えるに従って、三峯老人の驚きは並大抵ではなく、フム、伯爵と言えば華族だな。いけないいけない。華族などを婿にすれば、又言葉咎めがやかましい。腕一本で稼ぎ上げた人間はやはり腕一本で身を立てる婿に限る。 」

 (亀)「その様なことを言うけれど、逢って御覧なさい。本当に惚れ惚れするような方ですよ。」
 (三)「そなたが惚れたとて俺が惚れるか。」
 (亀)「まあ明日か明後日か自分で直々私を貰いに来るはずですから。」
 (三)「ナニ直々自分で。ソレハどうせその様なずうずうしい奴だろうと思った。今じゃ平民より華族の方が余ほど擦れていらァ。好し好し、俺も彫刻師で英雄の顔付きは何うとちゃんと覚えているから、明日になって来れば十分に人相を見て、好いとも悪いともその上で返事してやる。したがその名前は。」

 (亀)「伯爵茶谷立夫と言います。 」
 (三)「茶谷立夫か。なるほど平民の名と違う。オヤ言ううちに親睦会の時間が遅くなった。ドレ」
と言いそこそこにして出発しようとする。娘は戸口まで送り出し、阿父(おとつ)さん、早く帰って下さいよ。」

 流石は子を思う親の情、今まで声を荒げた事は打ち忘れ、大丈夫だ。十一時半には帰るから心配せずに先に寝るが好いと優しく言って門口に待つ馬車に乗ったが、門を出れば七人の敵ありとさえ言うのに、無事に帰ることのなるやならずや。何時不意に恐ろしい災いが落ちて来るかも知れないことを神ならない身が知らないのは仕方のないことだ。

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