nyoyasha3
如夜叉(にょやしゃ)
ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2012. 4.9
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如夜叉 涙香小子訳
第三回
この時五、六間先の軒下にたたずむ男があるのを見出したので、三峯老人はこれ幸いと進みより、
「お尋ね申します。この辺は何と言う町でしょう。」
問われて男は怪しげに老人を眺めるだけで返事をしようとしないので、老人はなお語を継ぎ、
「私は怪しい者では有りません。酔ったあまりに道に迷い、方角さえ忘れましたから問うのです。パチノール街へはどう行けば好いでしょうか。」
男は初めて安心したように老人の方に一足寄る。見れば職人風である。
(その男)オヤオヤそれは気の毒だ。ここからパチノール街までは又大変だ。網の目ように入り組んだ町々ばかりだから口で教えても分かるものではない。連れて行ってやりたいけれどこっちも大変な用事を控えているし。」
と濁す言葉を。それと察し、老人は早くも幾らかの銭を与えようとポケットの中を掻き探るとその男慌(あわただ)しく、
「ナニ、教えてやる位なら金などに及ばないが、イヤどうだ、こうしてくれないだろうか。実はね、私は女房が今夜急病で気絶したから病院に連れて行こうと思い、ベッドのままで店先まで持ち出したが、何分一人の力に合わずこうして困っているところだが、お前さんこのベッドの片端をかき揚げ私と共に病院まで行ってくれないか。病院は少し遠いけれど、パチノール街へ行く道だから。それに病院の前まで行けば馬車もあるし万一無ければその後は私が教えてあげる。何分この病人を捨てて置くということは出来ないから。」
と頼むように言うのを聞けばなるほどもっともな次第なので、
(三)オヤ、それはさぞお困りだろう。よろしい。病院まで私が片端を持ってやろう。その後で道さえ教えてくれれば。
(その男)「よろしいとも。女房を病院へ届けた後なら何処まででも送ってあげるよ。」
と一方ならず喜んで、男は店の方に寄り、
「サア、ベッドはこれです。」
と言う。なるほど開いた店の戸の外に一脚のベッドがあり、上には毛布を着せてあるので、その気絶した女房の姿というのは見えないが、何分病人に相違ない。酒にこそ酔っているが、腕力にかけては自慢の老人なので、軽々とベッドの後ろを担ぎ上げ、
「サア、お出でなさい。私は貴方の行く通り何処までも行きますから。」
(男)「病院が少し遠いのでお気の毒です。」
(三)「なに困る時は相い見たがいです。」
(男)「その代わりもし道で巡査に会えば呼び止めて貴方の腕のやすまるように代わりを務めてもらいます。」
と言いながら担ぎ出した。これより老人はわき目も振らずその男の後に従がって行くと、歩いても歩いても同じ狭苦しい町ばかりで、病院とやらには中々達せず、そのうちに何とやら一度通った同じ町を又通るような気もしてきて、ちょうど、なお失せぬ酒の気に息切れを始めたので三峯老人は我慢も仕切れず、
「もし、ここらで一息休んではどうでしょう。」
(男)「そうですね。私は一刻も早く女房を医者の手に掛けたいと思うからセッセと歩んで貴方のくたびれも知らなかった。ドレドレ少し卸しましょう。」
と言ってベッドを地の上に下しながら、
「オイ、静かにしてお聞きなさい。ソレ横手の坂の下から靴音がして来るのはきっと巡査(おまわり)ですよ。」
老人も打ち聞くになるほど巡査二人の足音なので、
「そうです。巡査です。」
(男)「巡査は人民保護が役目だから貴方の代わりにこの片端を持ってくれます。少しお待ちなさいよ。私が呼んで来ますから。」
と言って老人が返事もしない間に早や一走り坂下に下りて行った。
老人は腹の中で、
「アア、大分夜が更けてきたぞ。亀子には先に寝ろと言いつけて来たが、まだ寝ずに待って居るだろう。心配を掛けるのは可愛そうだがこうして病人のベッドまで担がされたと話して聞かせれば手を打って笑うだろう。」
と事につけては亀子のことを思い出すのも一人娘のかわいさからなのだ。
このようにするうち二個の角灯が坂の上に現れ出て来た。これは巡査が坂を上り尽くしたのだ。老人はこちらからそれを見ると巡査だけで、呼びに行った男は見えない。さては彼は坂下で買い物でもしているのか。巡査は坂の上で歩みを止めて右に行こうか左に行こうかと考える様子だった。老人はこちらから声を発して、
「巡査(おまわり)さん、ここですよ、ここにベッドガ有るのですよ。」
と呼ぶ。
巡査の一人の年嵩(かさ)のある方がその年下の方に向かい、
「栗川君、アノ男は何だ。狂人ではないか。」
と答える。この問答は聞こえぬので老人は待ち兼ねて、
「早く来て下さらなければ困ります。」
と催促する。二人の巡査は怪しみながら寄って行き、角灯を高く老人の顔に差し付け、
「その方は何だ。何事を行っている。」
(三)「ヘイ、私は今貴方方を呼びに行った男に頼まれてこうしてベッドの番をして。」
(巡査)「益々分からないことを言う。誰も私どもを呼びには来ないが。」
(三)「御冗談を。髭の長く生えた職人風の男が、」
(巡査)「イヤ、その様な者は来ない。」
(三)「ヘイ、それではアノ男が一つ横町を間違ったのです。今に帰って来ますから少しここでお待ちなすって下さい。」
(倉地)「こ奴は変な事を言う。お前その様な分からないことを言うと拘引するぞ。」
と年嵩なる巡査が叱るうち、年若き栗川巡査は目早く辺りの様子を見て、
「倉地君、成る程この者のほかに誰かいたと見える。コレこのベッドをまさかこの者一人で持って来ることは出来ないだろうから。」
(三)「そうですとも。女房ガ急病で気絶したのを病院に送ると言うので私が手を貸してここまで来たのです。」
年かさの巡査倉地と言うのが、
「待てよ、この老人大分酒に酔っている様子で、何を言うのか分からん。このベッドに寝ているのがその方の女房と言うのか。」
(三)「イヤ、私の女房ではなくて、今ここへ帰って来る職人のの女房です。」
(倉地)「ドレ、彼是(かれこれ)言うより検めるのが一番早い。」
と言いながら毛布の端をつまみ引き上げて角灯を病人の顔に差し付けたが、忽ち打ち驚いた調子で、
「栗川君、この老人を縛れ、縛れ、大変な犯罪だ。」
と急き込んで言うのを聞き、老人はあたかも夢中の夢を見る思いで、
「エ、犯罪とは何事です。」
(倉地)「白ばくれるな。この通り証拠が有る。」
と再び病人に角灯を差し付ける。老人は一目見てぎょっとした。
「成る程これは恐ろしい犯罪だ。」
と叫んだのも無理もない。ベッドの上の毛布の下に有るものは、病人ではなくて死骸だった。四十ばかりと見受けられる女の死骸で、その首には尚絞め殺した時の荒縄が、そのまま肉に食い込んで残っているのを見る。
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