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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

nyoyasha52

如夜叉(にょやしゃ)

ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2012. 5.28

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如夜叉              涙香小史 訳

                  第五十二回

 亀子が三峯老人に刺されてから今は9日目となった。亀子の生死はまだ分らない。大抵の病人は9日目になれば医師の見込みも定まると言うので、老人も柳田夫人も長々も早く淡堂先生にその見込みを聞きたいと思っているのだ。長々が連れて来たかの淡堂先生はその日から今に到るまで、殆どわが子を労わるように日に何度も訪ねて来て、亀子の一呼吸一呼吸を伺って疲れた色も見せない。

 老人は長々が良い医者を迎えて来たのを喜び、この人の手に掛けて直らなければ天命と諦めても怨みなしと言い、朝早くから夜の更けるまで亀子の傍に付ききりだが、亀子は医者から固く物を言うことを禁じられ、偶々(たまたま)何か言いたいときには僅かに手真似をするだけで悲しいことにはその手真似は何時も老人には見えないので老人は唯口の中で、

 「亀子許してくれ。亀子許してくれ。」
と呟くのみ。真に親も子もあわれむべし。この間にも女中は長々の指図を守り総て訪ねて来る人に向かっては嬢様は絵の額を替えるのに壁に上り誤って梯子から落ちて酷く怪我をしたと披露して一人も上に通さない。しかし日頃から亀子を知って居る人々は日々容態を聞きに来たが一人かの軽根松子だけはウンだとも潰れたとも音沙汰がなかった。

 長々は腹のうちで、
 「彼女は自分の身代わりに亀子を立てて大怪我をさせたことを感付いているのかな」
と疑った。それに引き換え切々と訪い来るのは亀子の許婚伯爵茶谷立夫である。彼は何度か亀子の寝間まで通してくれと請うことがあったが女中花子はこれを許さず、医師の言い付けであると云い固く拒んで退けるので、彼は心配に耐えられないという風で更に三峯老人へ宛て手紙を送ったが柳田夫人と長々と相談の上で、この手紙はまだ三峯老人に示していない。

 このようにして9日目の今日となった。今日というのは医師の見込みを聞く時だと一同は宛(あたか)も判事の宣告を待つ罪人のように恐る恐る待ち受けていると、昼前になって淡堂先生は入って来て、何時もより又一層真面目そうな面持ちで、一同には言葉も掛けずに先ず病人のベッドに寄り、暫(しば)し様子をを伺った末、
 「今少し息を後ろへお引きなさい、ドレもう一度、そうそう今度は極軽く咳きをして」
などと云う。

 亀子は無言でその指図に従がうと、この間の一同の心配は並大抵でない。いずれも息を殺して控えているばかり。そんな中で先生は少し亀子の頭を起こし、
 「嬢様気分はどの様です。」
と問う。老人は心配の余り座に絶えず、一人立ち上がろうとすると、この時先生は又亀子に向かい、
 「イヤ、心配に及びません。貴方も寝床に居る方が安楽では有りましょうが、もう少しずつ起き直らなければなりませんから。」
と云う。

 一同は驚いて、
 「何と仰る。」
同音に問い掛けると、
 (淡)イヤ、嬢様はもう直りました。傷を受けたのは右の肺の上部ですが、もうその傷が癒えて肺は異常なく働いて居りますからこの上は唯治る一方です。」
と言いその身も安心の息を吐き、

 「アア年が若く且つ血液が清潔ですからさしもの重症もこの通り早く直るのです。」
老人は嬉しさに叫ぶ声で、
 「では娘は生き返りましょうか。」
 (淡)生き返るどころでなく今から2週間の中には馬車にのっても差し支えないほどに回復します。まだ心身共に酷く動かしてはいけませんが少し位は話しもし、起きられるなら起きるのが良いのです。」

 老人は飛び立って淡堂の身にしがみ付き、
 「二万フラン十万フランこの礼に私の命でも」
と云う。淡堂は静かに押し退けて笑いながら、
 「イヤ貴方はそろばんを知りませんか、通例診察代は一度が五フランで十度としたところで五十フランです。それに毎夜病床に詰めた慰労として百フランを足し合わせて百五十フランが立派な謝礼と云うものです。」

 (老)「マアその様な事を言わずに取り合えずコレを」
と云い老人はポケットから小財布を取り出して無理に淡堂のポケットに押し入れようとする。淡堂は受けずと云い押し返えそうとする所を長々が仲裁し取敢えず納めさせると、この時亀子は初めて非常に良い声を発して、

 「では先生、もう物を言っても良いのですか。」
 (淡)ハイ、少しは言う方が良いけれど、酷く心を動かすような事はいけません。当たり前のことを少しづつおっしゃるように。」
 亀子は心得たりと見え、更に、
 「私の命は先生のお陰で取り留めました。」
と礼を述べ、次には三峯老人に向かい、

 「阿父さんここへ来て喜んでくださいな。」
と言えば老人は早や泣き声で、
 「オオ、俺の罪を許してくれたか。」
と言いベッドを杖に亀子の身に縋(すが)り付こうとする。淡堂傍から、
 「アア、余り心を動かす様な事は禁物です。」
と言い、長々も、
「老人、涙を納めて先ずお座りなさい。」
と制す。

 亀子も同じく、
「阿父さん、お座りなさいよ。座って病気中の事柄を話してお聞かせなさい。」
 老人はようやく心を押し鎮めて席に戻ると亀子は又、
 「私の知って居る人々は大抵訪ねて来てくれましたか。誰も寝間までは来ませんでしたね。」
と問う。

 (老)イヤ、それは淡堂先生の指図に従がい皆玄関から追い返してしまったのだ。
 (亀)でも何とか私を慰めては呉れたたでしょうね。茶谷さんも来たのでしょう。
 長々は聞いて心の中で、
 「アア傷は癒えても心の迷いは癒えないと見えるなア」
と呟いた。

 (老)オオ来たとも、来たとも、茶谷伯は毎日の様に来た。
 (亀)そうだろうと思っていましたが、何故ここには通しません。
 (老)それはサ、先生の言い付けだからではないか。誰にも会わせてはならないと。
 (亀)それは知っていますが、今度来た時はもうここへ通しても良いでしょう。
 淡堂先生はこの時、長々の目付きで彼が茶谷を嫌っていると見たので、

 「イヤ、嬢様、貴方は唯回復の糸口が立ったと言うだけでまだ直ったと言うのではなく、少しでも不養生が有れば直ちに後戻りが致しますから、友達と会ったりするのはまだ充分に直った時まで待たなくてはなりません。」
 (亀)でも貴方少し位話をする方が良いと仰ったでは有りませんか。父と話をするのも外の人と話をするのも同じ事で有りそうなものですが。
 (淡)「そうですね。その人が貴方の心になんともない人ならば構いませんが、若し会って少しでも貴方の心を動かすような人ならば害になります。」

 亀子は少し顔を赤らめて、
 「では害にならない時まで待ちましょう。」
 (淡)「ナニ、それも長いことでは有りません。誰にでも有って良いときが来れば、私がそう申します。それまでは話もただ家の者とするだけで外の人には決して会ってはなりません。」
と厳重に言い渡すと、亀子も、
 「分りました」
と頷いて承知した。

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