simanomusume163
島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(百六十三)小さな糸口
過日添子が四万円の金を持って来た時には、江南は其の四万円を拝み度い程に有難く思うたけれど、百万長者と為った今の彼には、単に目腐れ金の様に見える。
彼は誰に遠慮も無く、頽(くづ)せるだけ自分の顔を頽(くず)して、独り考えつつ、喜びつつ、部屋の中に往きつ戻りつ歩んだ。今までの事が何も彼も馬鹿げて見える。
「何して今まで、定まった財産無しに、身を支えることが出来ただろう。色々と自分の知恵を金に替えて来たけれど、知恵などと言う者は高が分かって居る。又何の様な場合に、泉の源が涸れないとも限らない。知恵に比べて見れば財産は有難い。百万円と言えば、年に四、五万円の収入は容易だ。巧みに廻せば六万円も得られる。寝て居たとしても、病気だとしても間違いは無い。
今までは千円の金にさえ何れほど危険を冒したかも分からない。アア馬鹿げて居た。馬鹿げて居た。成るほど戴冠式は追々接近するし、そうで無くても、年々騰貴する一方の宝石類は、何れほど高く成るかも知れぬ。事に由れば百二十万円にも売れるかも知れない。
彼が、喜ばれるだけ喜んで、漸く頽(くず)れた顔の造作が、其れぞれ元の位置に回復した頃、自動車の音と共に妻添子が帰って来た。添子は夫の顔を見るよりも、
「貴方は何所へ行ってお出ででした。」
江「ナニ悪い事柄では無い。善い事柄の為で有った。是からはもう和女(そなた)と一緒でなければ、何所にも出ぬ事にするよ。」
添子も何と無く嬉しそうに見える。
「喜んで下さい。貴方のお留守に、思う通りの幽霊が捕まりましてネ。何事も思うより旨く運び、もう次の雑誌の原稿も印刷所へ送って了(しま)いました。詩も絵も小説も、今までのより何れほど優って居るかも知れません。是から発行紙数の増す一方で、必ずドンドン儲かりますよ。 貴方の編集して居る時よりも、総ての調子をズッと低くし、俗分かり専一に勉めましたから、読者の範囲が幾倍も広がります。」
江「其れは結構だが、私しも和女に喜ばせる事が有る。先ア静かに身を落ち着けて。」
やがて夫婦は睦まじく相対して座した。江南は、隠すことが出来ない満足に顔を光らせ、
「和女が先日此の家へ来たのは、今思うと大なる幸福の小さい緒口(いとぐち)であったよ。」
添「小さい緒口!」
江「爾(そ)うさ、私が今度得た幸福に比べて見ると、和女の持って来た四万円は小さな緒口であった。」
添「其の様な大きな幸福が湧いて来ましたか。けれど本当の幸福は、貴方に取っては金より外に無い筈ですが。大金が手に入りましたか。」
江「爾(そ)うだ。金だ。金だ。私には金ほどの幸福は無い。其の金が転がり込んで来たよ。」
添「何れほどです?何れほどです?」
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