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島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(二百十四) 残らず那(あ)の通りだ
茲(ここ)で聊(いささ)か説明して置くことがある。江南と添子との間は、実を云うと、先ごろ百万長者の夢が破れて以来不和である。世間体は今までの通り、夫婦の様に暮らして居るけれど、全く此の家を両人(ふたり)の家庭(ホーム)とは思わず、唯合名会社と言う様な有様で、両人共同の事務所の様に思って居る。
両人は言葉を交えもするけれど、其れは必要な事務の上の打ち合わせのみで、通例夫婦の間に在る親しみの言葉や、自分自分の行いの説明などは、交換せられることが殆ど無い。其れが為に、添子はあの後、江南が紅宝石(ルビー)を辞退したことさえも知らなかった。
尤も時々は、何故に早く引き取らないのだろうと、怪しみはしたけれど、あの後は自分の権力が落ちた為め、問いもせず、只江南から打ち明けられるのを待って居た。
但し、雑誌発行の事務は、添子の手で滞り無く運ばれれ居た。
前々よりは、画も詩も小説も変わり、総体がズッと通俗に成った為、古い読者の中には購読を断ったのも多いが、其の代わり新たなる読者が出来、中々に末の見込みが附いて来た。
其れのみで無く、此の家を美術界の中心とする添子の目論見も追々に歩を進め、既に尋ね来る美術家も多く、又多少の顧客も出来、蛭田夫人の接客日と云えば、可成りの人達が集うのである。
此の様な事で、美術品売り買いの公密銭(コミション)も有り、百万長者には成り損ねたけれど、追々は裕福な生活も出来る様に成るだらうと、添子も江南も思うて居る。此の様な際である。網守子が検事局へ訴へると云って立ち去ったのは。
「夜逃げ、夜逃げ」
との江南の言葉を、添子は反響する様に、
「エ、夜逃げ?夜逃げ?」
江「何(どう)も仕方が無い。網守子が検事局に向かい、茲で云うた丈の事を云えば、検事は必ず第一に紅宝石(ルビー)を検める。紅宝石が贋物と分かる迄は、決して私に疑いは掛からないけれど、紅宝石が贋物と分かった日には、私の辞退したことが全く狂言と分かるから、如何とも仕方が無い。」
添「でも夜逃げとは」
江「爾(そ)うさ、私だけは夜逃げだ。和女(そなた)は和女 の勝手に何うでもするが好い。」
添「其れは貴方、余りに酷(ひど)いでは有りませんか。」
是が初めて、夫婦の間に在り相な恨みの言葉である。
江「酷くても仕方がない。許はと云えば、和女が紅宝石を盗んだればこそ、この様な破目になった。」
添「嘘を仰(おっしゃ)い、貴方が第三女の孫で有るのに、第二女の孫と偽り、紅宝石を騙(かた)り取る気に成ったから、此の様な場合に立ち至ったのです、貴方、貴方、網守子の云う多ことは本当でしょうか。」
江「本当だ。残らずあの通りだよ。」
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