simanomusume29
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(二十九) 天才と作品
梨英が何れほど怒っても、江南は、直ちに取鎮める秘訣を知って居る。彼の絵を褒めさえすれば好いのだ。
江南は打って代わって柔らかな言葉を発し、
「イヤ実を云うと、此の絵は大傑作だよ。僕を少しの間、静かに画面の前に立たせて呉れ給え。眺める中に潮風が、ソヨソヨ吹いて来る様な気持ちがする。」
是、必ずしも世辞では無い。全く画面から、潮風が吹き起こるかと疑われる。
果たして梨英は忽(たちま)ち心が解け、
「そうかね。絵を書くことの出来ない君にも、本当に其の様な気持ちがするかえ。有難い、有難い、アア、僕と一緒に画面の前へ立って眺めよう。」
と却(かえ)って梨英が江南の手を取って、画面の方に向き直らせ、自分も共に眺め入った。
全く芸術家には、褒め言葉ほどの妙薬は無い。褒め言葉に逢わなければ、天才と雖も、思う様な絵は書けない。
褒め言葉には、如何なる憂いをも忘れて了(しま)う。江南は自ら絵を書くことは知らなくても、其の呼吸は知って居る。
江南「今日君を招いたのは、既に買い人が付いたから、少し質問して置きたい。此の海は何処の景色だ。」
梨英「何処ので有ろうと、画(え)の真価に変わりは無いよ。何処とでも君の随意に答え給え」
江「僕は西南の海辺だと思うが。」
梨「そうよ。西南の海上だよ。」
江南は、再び梨英の気を損じない様にと、無言のままで大テーブルの方に退いた。梨英は椅子を引き寄せ、独り画面に対して座し、次第に思いに沈み行く様に見えたが、果ては深い嘆息を洩らして、
「アア俺の幸福は、此の少女に分かれた時に尽きて了(し)まった。少女の言葉が、一々気を引き立てる様に感ぜられ、他日必ず大発展をするなどと語り合ったが、何と云う大発展だろう。絵は書いても買い手が無し。借金は出来る、病気にはなる、宿の亭主からは立ち退きを迫られる、仕方無く江南と取結んだ契約を、其の時には嬉しい様に思ったが、その後は、年一年に自分の書いた絵を、他人の名前で賞賛せられるを見るに就け、浮かぶ瀬の無い自分の境遇が、恨めしく成って来る。アア厭だ。全く此の世が厭になった。」
彼はやや久しく独り言い、独り答えた末、急に立ち上がり、江南の前に行って、殆ど身にしみて、心に深く感じる事を、どうしようも無いと言った様な声を発し、
「蛭田君、僕はもう絵は書かぬ、絵などは書かぬ。」
と云い、其のまま走り去ろうとした。江南は慌てて引き留め、且つ励ます様に、
「君は天才を粗末にするのか。自分の大天才を尊敬しないのか。」
此の一語が急所を衝いた。梨英は両手を顔に当て、
「唯僕は辛い。僕は辛い。」
と 男泣きに泣き声を洩らした。
江南「此の絵が千円に売れるぞ。次の火曜日に来たまえ、ソックリ千円(現在の約103万円)君に渡すわ。」
実は三千円に売れるのである。
注 大正2年の一円は現在の約1、027円、1000円は現在の約103万円
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