巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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島の娘    (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

サー・ウォルター・ビサント作   黒岩涙香 訳  トシ 口語訳

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            (五十九) 合点が行かぬ

 網守子は、炉の前から其の紙切れを拾い上げた。今の網守子は、銀行の小切手を知っている。確かに破り捨てた小切手の一片である。先刻梨英が、何やら紙切れを破って、火の中に投げ込んだことは網守子が認めた。其の時には、痛く心が騒いで居る折であった為め、何事と怪しむほどは、気に留めなかったが、是で見ると、梨英は小切手を破り捨てた。

 彼の様に貧乏な男が、額(たか)は知らないが、小切手を持って居る事さえ不思議であるのに、其れを破り捨てるとは何事であろう。彼は破り捨てた後で、其の身の新紀元が是から始まる様に言った。彼の破り捨てる様子には、何だか悔しそうな様子が見えて居たと、網守子は思った。

 紙切れの表を見ると、日付の一部分と名前だけが残って居る。日付は今日である。名前は「蛭田江南」とある。さては梨英は蛭田江南に金を借りて来たのであろうか。江南が梨英の零落を憐れんで、補助を与えて居るのだろうか。

 其れにしては、梨英が破り捨てた事が、合点が行かない。イヤ人の補助など受けて居ては、世間へ頭が挙がらないので、新紀元に入る門出に、今までの事を忘れる為、特に破り捨てたのであろうか。網守子は色々に考えたけれど、遂に良くは合点が行かずに終(し)まった。
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 「私は不思議な様に思いますよ、此の頃は、私の行く先々に、必ずの様に蛭田江南の姿が見えます。何う言う訳でしょう。」
とは或る夜、網守子が侶伴の初鳥添子に問うた言葉である。添子は少しも怪しまない様子で、其れは当たり前ですよ。彼と貴女とは趣味が合って居ますから、貴女の行こうと思う所へは、彼も自然に行く気に成るのですわ。」

 実は当たり前では無い。常に添子が、江南に網守子の行く先を知らせるのである。其れに従い江南は、或いは先立って、或いは後れて、偶然の様に其の所へ行き合すのである。網守子が公園へ行こうが、美術館へ行こうが、或いは芝居へ行こうが、必(きっ)と江南が来合わせて、幾時か言葉を交える。此れが為に、世間の一部では既に、

 「網守子の影には必ず江南が居る。」
と言う風に噂する人もある。網守子は、その様な事には頓着しないけれど、此の頃では少し怪しく感じるに至った。
 「だって彼の方は、私の様な閑人では無いでしょう。色々事務も有りましょうに。」

 是には添子も一寸返事に困った。
 「其れは貴女、事務の合い間に、保養旁(かたが)た散歩するのでしょう。」
 網守子は先夜梨英の破り捨てた小切手の事を思い出し、
 「彼(あ)の方は、人を補助するような親切な気質ですか。」
と問うた。
 添子はここぞと思い、身を乗り出した。


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