巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune152

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.3.25

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         捨小舟  後編   涙香小史

             百五十二

 園枝と父侯爵との歓びは譬(たと)えようとしても、譬えるものもなく、筆にも紙にも尽し様が無い。園枝は少しの間侯爵に縋(すが)り附き、宛(あたか)も小児の様に、その胸に我が顔を当てて、嬉し涙に咽(むせ)んで居たが、その間にも抱かれごころの何となく寛(ゆるや)かにして、長く居馴染(なじ)んだ所の様な気にさせられるのは、過ぎた昔の幼い頃、幾度と無くこの膝に靠(もた)れ、幾度と無くこの胸に顔を当てて、縋(すが)り馴れていた為であろう。

 この様な気がして顔を上げ、再び侯爵の顔を眺めると、前から夢ともなく、現ともなく、我が目の前に徘徊して、非常に懐かしく思っていたその顔である。是は実に心と心に通じ合う、親子の血筋にして、他人には理解しようも無いが、双方の胸には春風の様な、和(なご)やかでむつまじい雰囲気が、自ずから解け入って、又親子で有ることは疑がいようも無かった。

 侯爵も園枝の顔を眺めるに従い、昔失った幸福は悉(ことごと)く帰って来たような気がせられ、
 「オオ、和女(そなた)の顔は亡くなった母の顔より清く、私はもう妻と娘に一時に邂逅(めぐりあ)った様に思う。そうして又可愛い孫まで手に入ったとは、是でもう多年の苦労も忘れて仕舞った。」

と心を開いて語り合うこと、僅(わず)かに半時にも足らない間に、二人は、今迄幾十年も俱(とも)に偕(とも)に住み馴れている親子の様に、何の隔ても無く打ち解けた間となり、或は問い、或は答え、互いに他のことは考える暇ないほどに見えたが、この様な所へ、案内も乞わずに、突々(つかつか)と歩み入り、この様を見て、非常に異様にに打ち驚く一人があった。

 是こそ常磐男爵である。先刻迄はこの室に重鬢先生が控えて居たが、先生は園枝と父侯爵の話が熟するのを見、静かにこの部屋から立ち去って、今は親子唯二人、抱かれつ縋(すが)られつ歓び合う所なので、常磐男爵は少しも何事なのかを理解する事が出来ず、早くも一種の怒りを催し、

 「園枝、園枝、その方は誰だ。」
と咎める様に問う声も非常に鋭い。
 園絵はハッと驚きながらも、
 「オオ男爵、是は二十余年目に初めて邂(めぐ)り逅(あ)った私の父、伊国(イタリア)の貴族牧島侯爵です。」
と云ったが、男爵は未だ理解せず、

 「何だと、牧島侯爵とな。私には少しも理解出来ないが。」
と打ち叫んだ。
 侯爵も今迄無言で、唯怪しむ様に、控えて居たが、茲(ここ)に至って、何となく角目立ち、
 「娘、娘、他人の部屋へ断りも無く入って来るその方は誰だ。誰だ。」
と聞いた。

 園枝は遽(あわただ)しく父に細語(ささや)き、是が我が身を貧苦の中から救った、常磐男爵である旨を告げると、父侯爵は却(かえ)って益々不興を加え、
 「オオ和女(そなた)を不義者よ、毒婦よと牢にまで下したと云うのはこの人か。人の娘に何で悪名を附けたか、逢ったら聞こうと思って居た。コレ、娘下がって居ろ、この様な人の前へ出るな。今度は又何の様な悪名を附けられるかも知れないぞ。」

と云い、床を踏み鳴らして男爵の前に詰め寄せる老いの一徹、男爵の方としても、まだ充分に飲み込む事が出来ていないので、眉を顰(ひそ)め、
 「是は怪(け)しからん。無礼の言葉を聞いたものだ。」
と云い、同じく一歩進み寄り、将(まさ)に容易ならない事にも立ち至たるのではないかと思われる折りしも、庭の方から飛び込んで来た重鬢先生、早くも両人を遮(さえぎ)って、先ず常磐男爵に向かい、牧島侯爵の身の上から、多年娘園枝を尋ねて、今しも漸(ようや)く邂(めぐ)り逅(あ)った旨を細々と語り聞かすと、男爵は一句一句に打ち驚き、先生の言葉の終わるのを待ち兼て、翻然(ほんぜん)《急に心を改める様子》として非を悔いた色を示し、侯爵に打ち向かって、

 「イヤその様な事とは知らず、この上無い失礼を致しました。」
と云い、明らかに罪を謝し、更に園枝に仕向けた重々の過ちから、その過ちが分かった為、園枝に詫びて再び元の夫婦に帰ろうと思っているので、何とぞ快く同意して下され度いとまで心の底を総て打ち明けたが、侯爵は未だ解けやらず、依然として厳重な口調で、

 「イヤ何が何だか知らないけれど、賤しくも貴族の端に列なる者が過ちにもせよ、妻を牢にまで下すとは、フム、英国の貴族はそれ程意地の悪い風かも知れないが、私の国ではそうでは無い。娘が仕方無く断念(あきら)めて、その恨みを忘れたとなら、それは娘の了見、この父の知った事では無いが、その様な悪名の附いた屋敷へ、何(どう)して娘を帰されよう。

 世間の人は今でも未だ不義者よ、毒婦よと疑って居るかも知れない。貞女を不義者と云う様な恐ろしい国には、足踏みもする事は出来ません。英国中の人が残らず娘の潔白を認め、残らず過ちを謝(あやま)るなら兎に角、娘は私が直ぐに伊国(イタリア)に連れ帰り、孫と三人で世間から何の噂も聞かない様に安楽に暮らします。」
と云い、頑として動く様子は無い。




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