巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune154

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.3.27

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         捨小舟  後編   涙香小史

                     百五十四

 毒薬と知らずに毒薬を飲もうとする園枝、男爵、侯爵の三人の命、最早や助け様も無い。天から降るか地から湧くか、非常に力強い手が、何処からか現れて来て、三人の持っている硝杯(コップ)を叩き落とさなければ、哀れ三人とも死人である。明日の日の出をも見ることはできないだろう。若しもこの様な力強い手が天か地か、どちらからか現れて来て、三人を救うことが出来たならば、これは実に神怪(ミラクル)とも称すべきものであるが、今の世にその様な神怪(ミラクル)の現れて来る可能性は無い。

 しかしながら神怪(ミラクル)は現れた。この最(いと)も恐ろしい唯一転瞬の間に、鬼神よりもっと不思議な手が現れて来て、非常に異様に彼皮林の悪計を妨げた。
 硝杯(コップ)は既に園枝の口の辺に在る。毒と唇の間に、一髪を容れた刹那と成り、忽(たちま)ちこの涼亭の周囲(めぐり)に在る鬱蒼(うっそう)たる茂りの蔭で、宛(あたか)も人が絞め殺されるかと思われる悲絶凄絶の叫び声が聞こえて来た。誰の声、何の為、三人は蕭然(しゅくぜん)《静まり返っている様子》と驚き、言い合わせた様に硝杯(コップ)を下に置き、顔を見合わせて耳を澄ますと、続いて聞こえるのは、霹靂(へきれき)の様な一声、

 「飲むな」
と云い、
又続いて、
 「毒薬だ。」
と手に取る様に聞こえた。怪しさは云いようも無かったので、三人の目は一様にその茂りの方に注がれたが、中でも侯爵は、先ず、
 「ハテナ、聞き覚えの有る声だが。」
と云い、次に男爵、
 「好く似た声だ。若しやーーー、」
と言い掛けて又考え、

 「イヤイヤその様な筈は無い。」
 この時まで無言だった園枝は唯一語、
 「アレまあ」
と叫ぶより早く、直ちに立って茂りの方を目指して、飛鳥の様に馳せて行くので、仔細を悟らない候爵と男爵も、一歩も遅れず茂りの彼方に分けて入ると、緑陰の最も深い所に一個の寝台があった。寝台の上には、全身不随の小部石(コブストン)大佐が起き直って座して居た。

 寝台が茲(ここ)に在るのは怪しむ事では無い。先刻園枝が小部石大佐に午後の暑さを避けさせるため、大佐が常に最も好むこの茂りの蔭にその寝台を曳いて来て、大佐を茲(ここ)に寝かせて置いたものだ。唯話しに実が入って、一同殆ど大佐の事を忘れて居たが、怪しい叫びに園枝が第一に気附き、若しや大佐の身に何事か起こったのではないかと、我を忘れて馳せて来たものだ。

 それにしても、全身不随の大佐が置き直ったのは何の為だろう。人々は殆ど呆気に取られ、これはこれはと許りに大佐の顔を眺めると、大佐の容態は最も先見性の有る医師をすら驚かせる程に回復し、一目で先刻までの大佐とは大いに変わった所があるのに気付かされた。今迄眼だけは動いて居たが、その動き方は非常に爽やかとなり、脈管に血の循環を早めたのか、青かった顔に幾分かの血色を現し、殆ど病気以前の大佐の顔を見るようであった。更に身体の働きは充分とは見えなかったが、無言であったその口に発言の機能を得たと見え、更に続け様に、

 「毒薬、毒薬」
と口走った。
 人々はその言葉の何の意味かを問うより、先ず大佐の快よい容態を打ち喜び、園枝は直ちに大佐の手を取り、
 「好う先ア口を利く事におなりなさった。」
と云うと、男爵も又一方の手を握り、
 「老友、到頭声が出る様に成ったか。是は何より喜ばしい。」
 侯爵はつくづく感心した様に、
 「フム、多年動かなかった口が、急に動き始める時は、今の様に恐ろしい叫び声を出すものかなア。」
と云う。一人として大佐が何の為、その口、その舌、その喉の働きを、回復する事が出来たのかを悟らなかった。

 大佐は何とやら悶(もどか)しい様子で更に、
 「毒薬、毒薬」
と言い続け、
 「捨てろ、アノ毒薬を」
と殆ど片言の様に言うので、男爵は慰める調子で、
 「オオお前は俺の身代わりに立ち、毒薬を飲んでこの通りになったのだが、今は漸(ようや)くその毒薬の結果を、捨てる事が出来たと言う事か。」

 大佐は今叫んだ大声に、痛く疲れたものか、再び寝台に横に伏せ、大儀そうな声を続け、
 「爾(そう)ではない。硝杯(コップ)の中の毒薬を捨てろと云うのだ。今皮林がアノ瓶へ注ぎ込んで行ったのだよ。」
と念を押す様に云った。皮林の名を聞いて男爵は昔の怒りを一時に思いお越し、悔しさに我慢が出来ない様子で、
 「何だアノ皮林育堂が今この庭に来たと云うのか。」
 園枝は皮林と聞くだけで、汚らわしさに耐えることが出来ない様に身震いして、

 「アノ様な悪人だから、何所までも附き纏(まと)うだろうとは思って居ました。」
と云った。侯爵は、
 「オオ話に聞いたその皮林と云う悪人が、此庭(ここ)へ忍び込んで、アノ硝杯(コップ)へ又毒薬を注ぎ込んで行ったのか。それなら直ぐにあの飲み物を捨てて仕舞おう。」
と言い、涼亭の方に馳せ返ろうとすると、男爵は是を制し止め、

 「イヤ、そのままお置き下さい。捨てるのは何時でも捨てられます。保存すれば又証拠になる時も有りますから。」
と言い、更に又眉を顰(ひそ)めて、
 「皮林が今迄付き纏(まと)って居るとな、若しや老友ーー。」
と言い掛けて考えるのは、若しこの大佐、口を利く力だけは回復したが、まだ心に充分でない所が有って、妄想に迷わされて、根も無い事を云っているのでは無いかと気遣い、

 「老友詳しく話して呉れ。彼皮林は何所から来た。」
 大佐は喘(あえ)ぎ喘ぎ、
 「オオ、彼は唯一人でアノ裏門から入って来て、四辺(あたり)を見廻して、瓶の中へ毒を入れた。俺は何も彼も見て仕舞ったが、彼が涼亭へ入った時には、俺は切無くて死ぬかと思った。血が胸一杯に突き込んで張り裂ける様であった。どうかして己(おの)れ悪人と叫び度くて、心の中で悶掻(もが)いたけれど、声は出ない。アア今に三人が来て、知らずにこの毒を飲むかと思うと、身の置き所が無い程で有った。」

 侯爵は又感心し、
 「その時声が出なかったのは仕合せだ。若し吾々の来る前に声を出せば、それこそ其(そ)の悪人に絞め殺される所だった。」
 大佐は又言葉を継ぎ、

 「彼は己(おれ)が茲(ここ)に寝ているのを知らず、そのまま静かに立ち去ったが、己(おれ)は何(どう)しても三人を助けなければならないと思い、心の中で神に祈った。どうか誰もこの飲み物に手を附けない中に、我が声が出ます様にと、如何に祈っても祈っても声が出ず、寧(いっそ)我が舌を噛み切って見れば、声が出るだろうかと、舌を動かしてもそれさえ出来ず、その中に三人の姿が見え、園枝夫人が第一に硝杯(コップ)を口に当てたから、今叫ばなければ、助からないと、必死に自ら悶掻(もが)く撥(はず)みに、我知らず声が出て、舌が廻った。」

 是だけ云って我慢が出来ない様に、太い息を発したので、さては一同、この大佐の為に、危うい命を助けられたのかと、今更肝を冷やした。




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