巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune27

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.11.20

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                二十七

 男爵の言葉に応じ、小部石(コブストン)大佐も一方を振り返えると、成程次の部屋から運歩徐々(そろそろ)として歩み来る夫人がある。その姿は瀟洒(しょうしゃ)《飾り気がなく、すっきりしてあか抜けしている様子》な水色絹の長衣を軽く着流し、頭に唯だ折り立ての大きな薔薇の花一輪を挿しただけで、外に飾り気と言っては何も無い。これは勿論人の目を奪う様な身なりでは無い。

 通例の婦人に取っては、味も趣も無い拵(こしら)えであるが、新夫人の優れているのは、着飾の為にあるのでは無い。天然の姿に在るのだ。その飾り気の少いだけ、益々天然の美しさを露出(むきだ)して、気位(きぐらい)の益々高いことを現すばかり。

今も今、
 「醜婦ならば許しもしよう、美人ならば許し難い。」
と叫んだ小部石大佐も、この美しい姿を見ては、優れた趣が爽やかに通って来るのを覚え、憎もうとしても憎むことが出来ず、賤しもうと欲しても賤しむことが出来なかった。岩よりも堅いかと疑われる両の頬は、自ずから弛んで動き始め、恭々(うやうや)しい笑みとなり、その身は知らず知らず立ち上って、尊敬の意を表すまでに至った。

 男爵は是(ここ)に於いて、然るべく両人を紹介(ひきあわ)せると、新夫人は喜ばしそうに、
 「兼ねて良人(おっと)から老友、老友と言って、屡々(しばしば)お噂を伺いました。初めてお目に掛りまして、久しいお昵(なじ)みの様な気が致します。」
と云う言葉は、有りふれた挨拶ではあるが、其の言い方は、百万の臣下に慈愛を分かつ、女王の言葉かと思われるほど柔らかで、とりわけ、その狎(な)れず高ぶらない有様は、全く老武人の頑(かた)い心を融和(ときやわ)らげた者と見え、大佐は纏(まと)まった返事すら発することが出来なかった。

 「イヤ、私こそ。」
と迄は口に出したものの、その後は何を云ったのか、自分ながら分らなかった。
 この様な折りしも、次の部屋に又一客が現れたので、夫人は、
 「何れ緩々(ゆるゆる)お話を伺いましょう。」
などと言って、その方に立ち去った後に、男爵は大佐の心が、大いに柔らいだのを見たので、非常に笑ましそうに、
 「何うだ老友」
とその返事を促すと、大佐は手の掌(ひら)で我が前額を砕ける程に打ち叩きながら、

 「何う云う者だろう。己(おれ)は全然口が利けなかった。何うも不思議だよ。」
と云い、更に又、
 「イヤ、お前が婚礼したのも、無理は無い。アノ婦人なら、顔は美し過ぎるほど美しいが、外の美人の様な悪心は持って居ない。フム、己(おれ)が受け合う。醜府でもアレほどの善い心は持って居ない。己(おれ)はこの年になって初めて心と姿と揃った、本当の美人を見たよ。」
と褒めて止まない。

 人に諂(へつら)う事を知らない老武人が、ここまで感心するのは実に容易な事では無い。男爵は千人、万人の褒め言葉よりももっと有難く思って、
 「お前は本当に己(おれ)の知己だ。」
と云い、堅く大佐の手を取って握りしめた。

 ここに又、この屋敷の広い庭に向った一室の小窓に凭(もた)れ、密々(ヒソヒソ)語らっている二人の客がある。これこそ男爵の甥永谷礼吉とその友皮林育堂である。永谷は殆どこの世に嫌気がさしたと云う様子で、
 「皮林君、君は才子は才子だけれど、僕はもうホトホト厭に成ったよ。君が何うして呉れるのだか、一向に分らん。」

 皮林は意見する様な調子で、
 「君の様に気が短くては、世に立って大事は出来ない。宛(まる)で小児の様じゃ無いか。僕が何れほど君の為に働いて居るか、好く考えて見るが好い。今から一月前には、君はとても伯父の家へ、出入りの叶う事では無いと絶望して居た者が、今はこの通り伯父の家で逗留する事に成った。是れは誰の智慧だ。

 又僕が男爵からこの通り客分として迎えられる様に成ろうとは、君は思いも寄らなかっただろう。けれども僕の言った通り、僕は公然とここへ入り込み、男爵にも新夫人にも自由に近づく事の出来る身と為った。是を偶然だと思うのか。決して偶然ではないよ。僕の智慧と尽力とに依る事だ。この通り僕の仕事は着々進んで居るじゃないか。更に是だけでは無い。既に僕の言葉で充分に男爵の心を動かして有る。」

 永「何う動かして。」
 皮「知れた事サ。君を一旦勘当したのは、余り邪険に過ぎたか知らんト、徐々(そろそろ)後悔を始める様に、こう動かして有るのサ。君は何も心配する事は無い。一切僕に打ち任せて、唯時節を待ちたまえ。」
 永谷は初めてやや飲込んだ様に、
 「ウム、君がそう云うなら、君に打ち任せて置く外に仕方が無いけれども、君のこの後の工夫は何う云う工夫だ。」
 皮「君に説き聞かせても分らないから、黙って打ち任せて置き給えと云う事サ。」
と云いつつ、皮林は庭の彼方を打ち見やり、

 「先ア永谷君、彼所(あすこ)を散歩している三人の様子を見給え。」
と取っても付かない事を云うので、永谷は何事かと眼を転ずると、遥か彼方に、伯父男爵が新夫人の手を引き、小部石大佐と三人で、非常に面白そうに、何事をか語らいながら、漫歩する姿である。

 「エ、あれが何うした。」
 皮「何うもしないが、ナント幸いな夫婦じゃないか。ソレ夫人が何か老武人に話をすれば、君の伯父が面白そうに首を傾け、感心して妻の顔を覗き込んで居るワ。」
 永「君は詰まらない事を云う。」
 皮「詰まらない事でも、先ア、あの夫婦の睦まじくて互いに幸福そうな有様を好く見て置き給え。是はもう当分の事で、この後幾度も見る事は出来ないからサ。」

 永「エ、何だと、僕には君の云う事が少しも分らない。」
 皮「エエ、君も覚りが悪い。見給え、今から幾週と経たない中に、アノ立派な新夫人が修羅の底へ落ち込んで、名誉も無く、地位も無く、世間へ顔向けさえも出来ない浅ましい身と為って、君の伯父も又、心底から愛想を尽かし、この様な者を何だって妻にしたかと後悔に後悔を重ね、又と楽しい月日を見る事が出来ない様になるからサ。その時になれば、男爵の眼へは、アノ夫人よりも君の方が未だしも頼もしいと見えるから、煩悶(はんもん)《悩み苦しみ》懊悩(おうのう)《心の奥で悩むこと》した余りに、必ず遺言状を書き替えて、夫人に贈る可き財産を、悉(ことごと)く君に贈る様に成って来るのサ。」
と云った。

 これは一時の空想か、将(は)た又男爵夫人の後々に適中する、恐ろしい予言になるのか。
 抑(そもそ)もまたこれは、皮林育堂の陰謀であるのか。
 自ずから分り来る時迄は、何れとも判ずる方法は無い。


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