巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune46

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.12. 9

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                 四十六

 茲(ここ)に至って園枝は、全く皮林育堂が狂人では無くて、最(いと)も憎むべき、賤しむべき大の悪人であることを知り、我が身が全くその企計(たくらみ)に陥入(おちい)ったことを知った。彼れが若し狂人ならば、どうしてここまで辻褄の合う言葉を発する事が出来るだろうか。彼は全く狂人では無い。悪中の悪、賊中の賊、真に極悪非道の人である。

 常磐男爵の財産を奪う為、永谷礼吉を種として、私をこの上ない辱しめの底に押し入れ、再び人間界に、顔さえ出されないほど可嘆(かなし)い身の上してしまおうと企んでいるのだ。
 園枝は、彼れを狂人と思った時よりもっと驚き、又更にもっと恐れた。

 狂人ならば賺(すか)し《なだめる》慰める道もあるだろう。狂人では無いこの悪人は、何を以って賺(すか)す事が出来ようか。狂人の恐ろしいのは、他人の身体(からだ)を傷つけることに在る。身体の傷には癒す事の出来る薬があるが、我が名誉と我が信用に負わされた痛みは、何を以って癒すことができるだろうか。
 彼が、
 「貴女は既に大恩ある良人(おっと)を捨てて、駆け落ちをした不義者と見做(みな)されています。」
との一言、実に彼の企計(たくらみ)の奥底を晒(さら)け出したものである。
 園枝はこの一語に驚き叫んだ儘(まま)、後の言葉も直ぐには出て来なかったが、皮林は更に満足の様子で、言葉を継ぎ、

 「世間の人は総て上部(うはべ)を見て判断します。貴女が遊山場から、怪しい馬車に私と相乗りして、誰も見ない間に、逃げる様に立ち去ったのは、何う見ても駆け落ちです。誰もこの様子を見た者は無いと、貴女は思うかも知れませんが、隠すほど現われるのが世の常で、特に貴女ほどの身分には、必ず羨みか嫉みから、絶えずえず密(ひそか)に見張って居る人が有る者です。それに私も充分に用意を運び、後で若し調べれば、両人が相乗りして立ち去った事が、充分推量の出来るようにして来ました。今頃はもう、あの遊山場に居た客一同が、貴女を不義者と思って居ます。貴女の良人男爵は猶更(なおさら)です。」

 園枝の心は掻き乱れ、
 「夜さえ明ければーーー、ハイ夜の明けるまで命さえ有れば、私は屋敷へ返り、良人(おっと)にこの事を訴えます。ハイ、良人も貴方のこの無礼、この悪事を暴き、貴方を罰する丈の道を附けます。」
 皮林は嘲(あざ)笑い、
 「貴女が何を言っても、常磐男爵が信ずると思いますか。云えば云う丈け益々愛想を尽かされます。何としても貴女は、もう不義の汚名を雪(そそ)ぐ事は出来ません。」

 園枝はこの様な悪人と同席する汚らわしさに、身も縮む思いがする。又顧みて我が身を想えば、実に浮かぶ瀬の無い運命なので、絶望して、
 「オオ、悪人、悪人。」
と叫ぶばかり。

 皮「モシ、夫人、世の中は総て博打の様な者で、貴女が幾百万と数知れない財産のある、常磐男爵の妻に成ったのは、丁度大博打に勝った様な者ですよ。今度は貴女の負ける順番が来たのです。エ、爾(そう)じゃ有りませんか。貴女が旨(うま)く勝ったのを見て、貴女と一勝負試みて、一か八か闘って見ようと、貴女よりは更に上手な更に手強い、私の様な大博打徒(おおばくちうち)が出て来るのは当たり前です。名も知れず、素性も知れず、何所の馬の骨とも分らない女が、不意に旨い儲けをして、大財産を手に入れれば、その儲(もう)けは山分けにと、横合いから手を差し延べる人が有るのは、覚悟して居なければ成らないでしょう。」

 アア、この男、何所までの悪人であることか。園枝は只管(ひたすら)呆(あき)れて天を仰ぎ、
 「エエ、是ほどの悪人が人間の皮を被(かぶ)り、人間と間違えられて、この世の中に住む事が出来ましょうか。」
と打ち叫ぶ。その様子は、まるで天に訴え、裁判を請うようであった。

 それから更に又皮林に打ち向かい、
 「貴方が何を思い、何を為さろうとも、私の知った事では無く、総て貴方のご勝手です。もう私に貴方の恐ろしい考えを聞かせて下さるな。ハイ、何も口を利いて下さるな。貴方の声を聞くのさえも汚らわしく、私は身を汚される思いがします。先程まで貴方を狂人と思いましたが、今は何もかも分かりました。私は貴方の様な悪人と争う心も有りません。総て天の裁判に任せて置きます。」

 この様に言い切って、園枝は日頃の非常に気高い女王の様に立ち上がり、皮林が眼中にも無いかの様に、彼方を向いて静かに又銃眼の傍に腰を卸(おろ)し、前に良人男爵から与えられた、小さい時計を出して眺めると、今漸(ようや)く夜の一時だった。明くる朝の八、九時頃に、番人が茲(ここ)に来る者としても、まだ八時間は、虜(とりこ)同様に、此所(ここ)に待たなければならない。

 「よろしい、僅かに八時間、待って待たれない事があるものかか。」
と、漸く心を決した者の、思えばこの身は全く恥の底に堕落し終った者である。少しも我が心に恥じる所は無く、茲(ここ)に悪人と一夜は愚か、一年を共に費やしたとしても、身も心も元の様に清いけれど、誰が我が身の清いのを知るだろうか。それでなくてもこの数日、我が身に余所余所しくばかり仕向ける良人(おっと)男爵、今夜の事が無いとしても、既に我が身に愛想を尽かしているかも知れない程なのに、如何して我が言葉を信じよう。

 今の世に、この様な古塔の中に捕え置かれるとは、我が身ながらも、殆ど実際の出来事とは思うことが出来ないほどなので、良人(おっと)が之を真実と思う筈は無く、良人さえ思わないことを、如何して他人が真実だと思うだろうか。アア我が身は最早や世の人から、全く不義の汚れ者と認められ、濡れ衣の、乾す術(すべ)も無い身とは成り果ててしまったと、思えば思うほど益々絶望が深くなるばかりだが、園枝は泣きもせず、嘆きもせず、嘆息の一呼吸さえも洩らさずに、石像の様に静かに控へ、空しく東天の白んで来るのを待つばかりだった。

 その心中はどのようであるだろう。



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