巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune49

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.12.12

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                 四十九

 古塔に一夜を明かした園枝の苦しみは勿論の事だが、良人(おっと)男爵も此の一夜の苦しみは、園枝より軽かったとは思われ無い。茲(ここ)に男爵が彼の遊山場を立ち去った経過から記(し)るそうと思うがーーー。

 一同の客と打ち群れて食事していた其の半ばに、下僕の一人が男爵の傍に来て、
 「誰からか使いに来た者と見え、十五、六歳の一人の子供が、手に一通の手紙持ち、直々に男爵に渡し度いと云い、下僕が取次ぎをすると答えるのに、其の意に応じず、否是非とも男爵に直々渡さなければならない手紙だと、強情に言い張って、去らない。」
との事を男爵の耳に細語(ささや)いた。

 日頃ならば、素性も知らないこの様な使いに、容易(たやす)く出て逢う男爵では無いが、今日は何の隔ても無い広い野原に遊んで居る事だからと云って、自ら格式を頽(くず)し、ドレと云って気も軽く立ち上がり、食事場より半町(約50m)ほど離れた、其の子供の傍に行くと、子供は大切な品の様に手紙を取り出し、

 「直ぐに之をお読み下さい。」
と云った。
 男爵は封を切って読み下すと、非常に男爵の心を騒がす、異様な事を認(したため)めてあった。何人が認(したた)めたのか、全く無名の手紙である。男爵は怪しみ乍(なが)ら読み終わり、厳しく其の子供に差出人を問おうと顔を上げると、彼は既に姿を隠し、隈(くま)なく近辺を見廻したが、何処にも見当たらなかった。全く蒸発して消えてしまったかと思われる程だった。

 男爵は不興気に、
 「奇怪な奴だ。」
と呟(つぶや)いたが其の甲斐は無かった。それにしても子供の行方よりも、手紙の文句の方が気に掛る時だったので、子供の捜索は是だけとし、更に一句一句味わいながら、念を入れて読み直した。

 其の文は、
 「男爵よ、余は君が近来、新夫人園枝を疑い、確(しか)と証拠を認め得ない為め、徒(いたずら)に煩悶して自ら苦しむ有様を見るに忍びない。友人の情として止むを得ず君に告ぐ。君今から急いで常磐荘へ帰られよ。今帰れば必ず確かな証拠を見認(みと)め、新夫人が真に貞女であるか、将(は)た又、不義者であるかを、充分に知る事が出来るだろう。今帰っても直ぐに証拠が分ると思う勿(なか)れ。唯だ気永に待つ中に必ず分るだろう。そうだ余の言葉を疑わず、屋敷に帰って気永く待つのが肝腎である。君が若し余の言葉を疑い、今帰るのを敢えてしなければ、此の証拠は又と見認め難くなる。君は何時までも疑いに苦しむ事になるだろう。帰れ、早く。」
と記してあった。

 日頃ならば、無名の手紙を容易には信じる事は無かっただろうが、数日来、唯だ妻の振る舞いを疑って、一刻の安心をも得る事が出来ないで居た際だったので、誰にも怪しまれ無い中にと思い、殆ど取る者も取り敢えず、愛馬「オレスト」を引き出させ、供をしようと云う馬丁をも退けて、急いで帰った。

 帰って先ず門番に向い、留守中に何か変わった事は無かったかと尋ねたが、何事も無しと答えた。有り難い、然らば我が帰りは間に合ったのだ。証拠は是から現われ来るに違いないと、この様に思って家に入ったが、家は是、幾百の客を宿しても、まだ余る程の部屋数である。何(ど)の部屋で何を待ったら好いのか、少しも分らない。又もや手紙を披(ひら)き、相談する様に之を読んだが、真に空々寂々の文句にして、是と指した所は何処にも無い。

 茲(ここ)に至って、是れは或いは何人かが、我を物笑いの種にしようと、悪戯(いたずら)をしたのではないかと、腹立しいまでに思ったけれど、イヤ手紙には気永く待てと、呉々も記して有る。今直ちに何の証拠も見えないからと云って、直ぐに此の手紙を疑うべきでは無い、何の証拠も見えないのが即ち、手紙の好く当っている証拠である。

 或時は又縁側に出て、門から裏庭まで見渡すなど、少しの証拠をも見逃すまいと注意する様子は、実に是れ日頃の常磐男爵では無い。全く嫉妬に逆上(のぼ)せた悪鬼である。
 この様な中にも、心の中の苦しみは並大抵では無く、

 「アア、我れ五十に近い今までも独身を守り、世間には敬われ、友人からは感心せられ、何不足無く、非常に幸福に世に送っていた者を、唯一時の迷いから、親子ほど年の違う女を娶り、更に幸福が此の上にも増す者と思ったのは愚かなことであった。

 身分も無く家も無い乞食女、我から唯一言、言い寄れば、喜んで我が妻と為るのは当然である。どれ程我を嫌って居ても、嫌う顔もせず、直ちに我が妻と為るのは、乞食女の本性と誰にも分る事なのに、爾(そう)とまで思う事が出来ず、嬉しそうに妻に為ったのを、我を愛する証拠だと気を許したのは、我が身ながら恥かしい。

 婚礼して幾月をも経た無いうちに、最早この様に後悔の念に責められるのも、自ら招いたことだ。禍は茲(ここ)に止まらず、今から又幾月と経ない中に、我が身は広い世間の物笑いともなるだろう。千百年来、人に指さえ差された事の無い、常磐家の家名は唯だ我が一時の痴情(あいじょう)の為に、我が代に至って、其の光を失う。」

と、居ても起(た)っても居られない程に、悩み悶えたが、其の中に夜に入って、唯だ時ばかりが移ったけれど、何の証拠も現われて来ない。待ちに待ち、疑いに疑って、殆ど疑いの種が尽きたので、何(ど)うやら又、彼の無名の手紙が怪しくなり、又取り出して四度目を読み直したが、気永く待てと記してあるのは、愈々我を愚弄する悪戯(いたずら)である。

 真に親切な友人の書いた者ならば、この様に曖昧に認(したた)める筈は無く、必ず何(ど)こかに確乎とした拠所(よりどころ)の有るのを示す筈だ。此の手紙は唯だ当ても無く我を待たせ、其の待つ様子を笑おうとする者の手に成った事は、今思えば明きらかな事だ。五十に近い身を以って、若く美しい妻を娶ったならば、何人も嫉(ねた)ましさと、羨ましさで、様々の悪戯(いたずら)をする者である。数多い客の中には、必ず其の悪戯(ふざけた)者が居るに違いない。

 老友小部石大佐が、客は皆我を笑って居ると云ったのも、今に及んで思い当られる。アア悪戯(いたず)らも事にこそ寄る。何人かは知らないが、屹度思い知らせて呉れる時があるだろうと、漸く心を転ずる折しも、遥かに聞こえる馬車の音は、一同が野遊びから帰って来た者と知られる。

 此の音を聞いて男爵の胸に、又忽ち反動を起こして来て、無名の手紙に欺かれ、深く園枝を疑った我が心の浅薄(あさはか)さが恥かしく、アア園枝も帰って来たに違いない。余り器量の美しい為め、諸人の猜(そね)みを受けるとは憐れむ可(べ)き限りである。今帰って来たならば、久し振りで優しい言葉をも掛け、理由も無く数日来疑った我が過ちを、夫(それ)と無く謝(あやま)りもしようなどと、心嬉しい春の再び満ち渡る想いがして、気も軽く門の辺まで出迎えた。

 園枝が、若しも今、此の一同と共に帰って来たならば、後々は兎も角にも、一時は男爵の心が解け、楽しい仲に復(かえ)る事が出来ただろうが、隅から隅まで悪人の企計(たくらみ)は行き渡って、一同と帰る事が出来なかったのは、抑々(そもそも)此の夫婦に縁が無かったのか、将(は)た又、夫婦の運が尽きたものなのか、悲しんでも、まだ余り有りと云うべきだ。

 男爵は何より先に、彼の二頭立ての、園枝の馬車に目を注いだが、怪しいことに、園枝は茲(ここ)には居なかった。ハッと思って嫉妬の炎、忽ち又燃え返ろうとし、且つは失望の念も有り、非常に不愉快気に、一切の馬車を見尽くす折りしも、誰より先に降りて来た満二十六歳嬢、そう知ってか知らないでか、男爵に打ち向い、
 「新夫人はもうとっくにお帰りに成っていましょうネ。」
と云う。

 男爵は眼を丸くし、
 「エ、エ、何と仰る。」
 嬢は呆れた様に、
 「アレ、先ア、一同よりは何時間も前に、軽い馬車で遊山場を立ちました。もうとっくに帰って居る筈ですのにネ、永谷さん。」
と言って礼吉に打ち向かって念を推し、更に又、
 「アノ皮林さんと、唯二人相乗りですから馬車も軽く、では皮林さんと二人で道寄りして居るのでしょう。」

 皮林と相乗り、皮林と道寄り、アア、証拠、証拠、手紙の待てとは此の事だったのか。
 男「エ、エ、あの皮林育堂」
と是だけ云って、後の言葉は咽喉に掛って出て来ない。男爵の眼は全く朱を注いだ。


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