巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune69

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                六十九

 田舎を指して出発した、彼の横山長作が常磐荘に向った事は、彼の独語(ひとりごと)から明白である。それにしても、彼は何のため、何人に命じられて常磐荘に向かったのだろうか。

 茲に常磐荘では、恐ろしい一家の不幸に、逗留の客達は興を奪われ、主人男爵の心配そうな顔を見ると気の毒で、挨拶の仕様にも困るほどの成り行きなので、人々は用事に託して帰り去る用意を始め、中には既に出発した人もある。家の内は益々陰気に沈み行くばかりである。

 男爵の心の懊悩(おうのう)《苦しみ》は殆ど譬えようにも、譬える物もない。昨日も今日も男爵は医師看護婦と共に、小部石大佐の枕頭(まくらもと)に在り、大佐の容体が、少しでも軽くなるのを待っているが、大佐は殆ど死人に似て、手も足も動かさないので、食事と云っても、唯看護婦が、管で其の口に注入れる肉汁(スープ)の類が、僅かに咽喉を下るだけ。

 味わいもせず、自ら飲み込む力も無く、この様な有様なので、人の言葉も耳には通ぜず、一切の感覚、一切の心を殆ど失い尽くしたかのようだ。唯少し生気が回復したかと思われるのは、其の眼で、今朝までは、宛も気絶した人の目の様に、張り開いた儘(まま)で、睨(にら)み詰めた其の眸子(ひとみ)は、右にも左にも動く事が無かったのが、昼頃からは微かに動き始めた。

 医師の言葉によれば、心が回復すると共に、眼と耳だけは見え聞こえる様になる可も知れないが、身体の働きは生涯回復することは無く、この後何年生き延びても、手足を動かし又は声を発するなどの事は決して出来る見込みは無い。

 唯心が充分に回復した後には、非常に其の心に驚きを感ずる様な場合が有れば、其の時には、或いは驚きの余りに叫び声を発し、従って追々に、身体の力を取り返す事が出来るかも知れない。今までにも、此の類の全身不随の病人が、驚きの為に一時に回復した例は無いわけではない。

 しかしながら、此の大佐の服した毒薬は、非常に激しい性質のもので、命だけ取り留めたのさえ、不思議とも云うべき程の事なので、先ず百のうち、九十九までは治る見込みは無いものと、断念(あきら)めなければ成らないと云う。
 男爵は之を聞き、非常に力を落とし、
 「ではもう活(い)きた死人ですネ。」
と嘆息すると、医師は、

 「生きた死人と云う事は有りませんが、先ず生きて居ながら死人も同様です。」
と云った。
 男爵はこの様な見込みの無い言葉を聞き、又一方には、大佐の憐れむべき容態を見、心に様々の悔やみ、様々の恨みが湧き出るのを留める事も出来なかった。思えば総ては、我が一旦の痴情(あいじょう)から起こったものである。

 五十に近い年までも独身を守り、世にも人にも尊ばれ、何不足なく幸福の年月を送って居た身が、フトした事から、素性も知れない少女を見染め、世間の思惑をも顧みず婚礼したため、婚礼の後、幾月も経たないうちに、其の歓びは全く消え、妻は老いた良人(おっと)を見捨て、年若い情夫を選び、我が顔に復(また)と雪(そそ)ぎ難き泥を塗り、清き常磐男爵家に千載の恥辱を加えたばかりか、更にこの身を毒殺して、此の財産を奪おうとして、其の果ては過って、唯一人の老友を、生きながら死人同様の有様と為すに終った。

 此の出来事は、隠そうとしても隠す方法が無く、最早や世間では喋々《ぺちゃくちゃ》と言い伝えて、我を物笑いの種としている事は必然なので、明らかに、此の不貞の妻を法廷に引き出し、其の罪を懲らしめなければ、如何にして老友に対する、我が勤めを尽くし、又如何にして世間に対する常磐家の恥を雪いだら好いだろうかん。

 一旦は我が過ちは悔いても帰らず。此の上は世人をして常磐男爵は一少女に欺かれて其の儘泣き寝入りとする如き無腸無骨の人に非ざるを知らしめんなど思ひて、生ける死骸の如き大佐に向ひ、殆ど悔し涙と共に、

 「コレ、老友、お前の目からはさぞかし己(おれ)が、馬鹿に見え、この様な馬鹿な友達を持ったばかりに、毒までも飲まされる事に成ったと、定めし悔しく思うだろうが、許して呉れ老友、己も自分の馬鹿が今分かった。アア今初めて分かった。是からは馬鹿な心を捨てて仕舞い、屹度(きっと)お前の心も晴れ、己もお前に再び笑われない様にする。コレ老友、己が充分姦夫姦婦を裁判するまで気を確かに生きて居て呉れ。」

と四辺(あたり)も忘れて、掻き口説(くど)いたが、大佐は更に通じない様に、唯僅かに其の眼を動かすだけ。若し男爵が、大佐が其の毒を呑む前に、唯一言で、園枝夫人が不義者でない事を知らそうと云った事を記憶していれば、大佐の前で園枝を姦婦と呼ぶのさえも、大佐の心に背いている事を知るべきなのに、悲しいかな、男爵は前後の事情に取りのぼせて、今は大佐の、その時の言葉さえ記憶していない。

 この様な折りしも、此の部屋へ、恐る恐る爪先で歩んで来た一人は、男爵の従者西井密蔵である。彼れは一枚の名詞を男爵に示して、
「この様な人が貴方にお目に掛り度いと申しますが。」
 男爵は手を延べてその名刺を取って読むと、単に
 「横山長作」
とのみ記してあった。

 男爵は寧(むし)ろ腹立たしそうに、
 「初対面の人になど、逢って居られる場合で無いのは、其の方が好く知って居るじゃ無いか。何だって取次ぎをする。」
と叱り附けた。


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