巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune8

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.11.1

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                   八

 少女園枝は如何(どう)したのだろう。横山長作は何処(どこ)に行ったのか。二人とも、全く消失した人の様に、何の音も沙汰も無く、今は早や空しく一年余の月日を過ごした。
 ここは倫敦(ロンドン)の西部で、アリントン街と云い、多く高貴の人だけが住んでいるが、中でも一際目立って壮麗な屋敷の構えは、英国屈指の物持ちと称せられる男爵常磐(ときわ)幹雄の控邸である。

 この邸(やしき)の客間として設けた一室に、何やら気に掛る事件でも有る様に、燥(いら)立って窓の外を眺めて居るのは、四十七、八歳の一紳士、即ち主人(あるじ)の常磐男爵である。男爵はヨークシャと云う所に、レイナム城として知られている本邸を持ち、更にリンコルンシヤと云う所に、常磐荘園として知られている別荘を有し、双方とも付属している土地は幾千ヘクタールに登り、一年の所得は殆ど数え尽くされ無い程で、世に不足と云う事を知ら無い身であるのに、今は何の気に掛る事があって、この様に穏やかならず燥(いら)立って居るのだろう。

 その訳は他でも無く、男爵は二十余歳の頃、深く想い想われた女があって、それを妻として一年ほど非常に楽しい月日を送ったが、天は良縁を嫉(ねた)んでか、夫人の身に病を下し、一子を腹に宿したまま、夫人は黄泉の人と為ったので、男爵は世を味気無く思い、一両年は旅から旅に日を送り、全く浮世を捨てた様に成って居た。

 その中に憂いは漸(ようや)く忘れたけれども、五十に近い今に至るまで再び妻を迎えようとはしない。
 迎える心が無い為か、はたまた心に叶う女が無い為なのか、何れにしても、男爵の夥(おびただ)しい財産は、子が無い為に、何人にか伝わるべき筈である。

 ここに男爵には三人の甥が有って、一人は男爵の弟の子で、二人は男爵の妹に生まれた者だが、この中で、弟の子である一人は永谷礼吉と云い、幼い頃から、非常に男爵に愛せられ、養子の様にして育てられたのは、多分、男爵が妻を愛した心を移して、永谷に加えたからだ。

 その為、永谷は到る所で男爵の相続人と見做されて、敬(うやま)われることと言ったら、並大抵では無い。年頃の娘を持って居る親達は、永谷の臨席する宴会には必ず娘を充分に着飾らせて出席させる程なので、永谷自身も、常磐家の身代は他日我が手に入るものとばかり思っていて、金銭を使う事、湯水の如く、伯父男爵に非常な無い迷惑ばかり掛けて居るが、男爵は生まれながらの貴族にして、心は飽くまで広く、永谷が紳士の身に有るまじき、穢(きたな)い振る舞いをしない限りは、如何ほどの失費も厭わ無いと云い、貴族の相続人は貴族らしく育てなくてはいけないと言って、唯だ永谷が人に褒められるのを、喜ぶだけにして居た。

 大抵の事は若気の至りとして許して来ていたが、ここに来て、一つだけで無く、永谷の身に許すにも許す事が出来ない、大不都合の所業が有る事が、男爵の耳に非常に確かに入ったので、今迄心広かった男爵も、初めて夢が覚めた様に、忽(たちま)ち永谷の身に愛想を尽かし、今までの可愛さに引き替えて、百倍の憎しみを催し、最早や貴族の後取りとして、養うべき男では無いと、断固としてその心を決し、今日は彼に勘当を言い渡そうと、永谷を呼びに遣り、非常に燥(いら)立って、その来るのを待っているところだ。

 男爵は時計を眺めて口の中で、
 「早や三時だ。もう来そうな者だ。」
と云い、又室内を一回りして、
 「真這(まさか)にこの様な悪人とは思わなかった。実に彼を見損なった。若い中には失策は有るとしても、故意に是ほどの悪事、是ほどの破廉恥を、エー、もう甥では無い。伯父では無い。昔から常磐家の縁類に、この様な事をした者は一人も無い。彼を今勘当しなければ、常磐家の名誉は消えて仕舞う。」
などと呟き、

 更に、
 「彼は口先で言いくるめて、俺の機嫌を直す事が出来るだろうと思うだろうが、そうは了(いか)ない。今日と云う今日は、何と言っても勘当だ。」
呟(つぶや)き終って再び時計を眺める折りしも、静かに入り口の戸を開けて、
 「永谷さんがお出でになりました。」
と通じるのは、取次ぎの男の声である。

 男爵は、
 「是へ通せ。」
と命じて置いて、我が勇気を堅めようとする様に胸に手を当て、
 「彼が何と云っても許しはしない。是を思うと、今迄も随分不都合な事が有った。それだのに、この様な男だと気が付かなかったのは、余り彼を信じ過ぎたからだ。」

 実に人の怒りは、我が深く信じ込んだ者が、その信に背いた事を知った時より強いものは無い。
 最愛の我が甥が、今迄思っていたことと打って変わり、非常に憎む可(べ)き悪人であったことを見破った男爵の心の怒りは、実に最もな事だと察せられる。

 丁度その時、戸の口から一礼して懐かしそうに入って来た年若紳士、鉄の心をも和らぐ程の愛嬌ある笑みを浮かべ、先ず男爵の手を握ろうとする様に、その両手を差し出して進み寄って来た。是、即ち永谷礼吉である。


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