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妾(わらは)の罪

黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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  妾(わらは)の罪    涙香小史 訳   トシ 口語訳

                 第五十四

 

 読者よ、妾(わらわ)の無罪を叫びたてた彼の婦人を仮に無名婦人と名づけよう。大鳥は無名婦人を捜して来るまで一時間の小休みを請い願ったのに対し、判事は検察官と相談の上でその請いを許した。もとより小休みの事なので、法廷を解散するのではない。判事、検事陪審員から傍聴人に至るまで、各々その席をに着いたままである。もっともその席から動いてはならないと言うう訳ではないので、暫時退いて休息しようと法廷から立ち出でる人も多くあったが、妾は元の椅子に寄り掛かったまま身動きもしない。

 弁護人大鳥は是非ともこの一時間以内に無名婦人を捜して来なくてはならないと言って、妾を後に残して置いて、法廷から立ち去ったが、その後の妾 の心配はどれ程だった事か。大鳥は果たして無名婦人を連れて来るか、否、連れて来たならばたとえ発狂人にしても妾の運は幾らか開く事になるだろう。もし連れて来なければ、妾は彼の婦人が真実狂人かどうかさえ確かめないまま、宣告される事になるだろう。

 彼の婦人は何者だろう。もし狂人ではなくて真実妾の無罪である事を知っているとしたら、妾の残念は猶更大きい。妾はこの世界に唯一人妾の無罪を知っている大恩人を証拠人とすることが出来ないまま空しく有罪の人となるだろう。これ程残り惜しいことは無い。妾がこのように思い患っているうちに、小一時間の休みは早や期限が切れた。大鳥さえ帰って来たら公判は直ぐに又始まろうとする。それで満場五千の人々は唯法廷の入り口ばかりに目を注ぎ、今にも大鳥が無名婦人を携えて彼の戸を開いて入って来るだろうと気が気でなく待っていると、読者よ、大鳥は帰って来た。アア、以前と同じく唯一人で帰って来た。

 妾の失望、満場五千の失望、いやそれよりももっと大きい失望は大鳥の心であろう。彼はその額から非常に大粒な汗をタラタラと流しながら、ほとんど死人かと疑われるような青い顔で、力なく入って来た。これを見て、陪審員に至るまで気の毒がる溜息を発した。大鳥が席に着くとともに拳廷官はこれから再び公判を始める旨を述べた。大鳥は直ちに立って、判事に訴え、

 「裁判官閣下よ、検察官が余りに早まって無名婦人を放逐なされたために、被告にとっては償い難い不利益を醸し出しました。いや、取り返しのつかない大利益を失いました。
 私はこの裁判所の前に辻立ちをしている馬車の別当を残らず呼び、無名婦人の立ち去った方角を問いますと、中には乗車を勧めたと言うう者もあります。門を出て右に行き、次の横丁を左に曲がったと言うう者もあります。それらの者にに、重い褒美を懸けて探させましたが、次の横丁を曲がってからどちらに行ったのか更に知る者がありません。最も泣きながら立ち去ったと言いますので決して狂人の類ではなく、確かに被告の無罪を知る者に相違ありませんが、それを検察官の為に追い出されたのは、被告の為に譬(たと)えようのない不利益です。

 これにより、弁護人は今から三日の間この法廷の延期を願います。その間になお手を尽くして無名婦人を捜します。たとえその行方は分からなくても彼の婦人自ら傍聴席から声を掛けるほどですから、逃げ隠れは致しますまい。必ず自分の方からもう一度名乗って出ましょう。真実被告の無罪を知るものならば、名乗って出ないはずは無く、もしも名乗って出ないならば、彼の婦人こそ即ち狂人です。たとえ狂人でなくても狂人と見なして差し使いありません。
 彼の婦人に再び名乗って出る時間を与えないで被告の罪を決するのは裁判官閣下に於いても陪審員諸君に於いても、又検察官閣下に於いても決して当を得た処分とは申されないでしょう。」

とこの様に述べて席に戻ると、検察官はほとんどほとんど待ちかねたように立ち上がり、
 「どの様な事があってもこの請求は決して入れることは出来ません。第一にかの無名婦人は必ずしも被告の利益とは言えません。何故ならば、被告は洲崎嬢が自分で落ちたといい、無名婦人は外に突き落とした者がいると言います。即ち被告の言い立てと無名婦人の言い立てとは全く違っていましょう。

 被告がもしも洲崎嬢は他人に落とされた者であると言い立ててあったなら、無名婦人の言い立てと合いますので婦人を証人にして利益を得るということもあるでしょうが、被告はすでに洲崎嬢が自ら落ちたもので他人に落とされた者ではないと言い立てております。然るに他人に突き落とされたのだと叫ぶ無名愚人をどうして我がための利益にします。ことに女と言うものは一時の感動に心迫り、我を忘れて狂いだすこともあるもので、今の無名婦人も即ちその一人だろうと思われます。

 婦人は目の前に被告の優しい姿を見、被告の恐ろしい罪状を聞き、満身唯被告を憐れむ心が満ち渡り、アア、可愛そうだ、どうかして助けてやりたいと思う余り、我にもなくあのような事を叫んだものとしか思われません。それだから法廷を出ると等しく心が落ち着いて、自分の行いが悪かったと言う事を知り、面目無さに泣きながら立ち去ったのであります。もし事実被告の無罪を知り、真実外に罪人のあることを知り、それが為に言い立てたのなら、一度は法廷から出されたくらいで落胆は致しません。その足で直ぐ警察に自首して出るとか何とかして、その目的を果たそうと勤めますから、今頃はとっくにこの法廷に再び引き出されていましょう。この様な訳ですから、三日の猶予を与えるほどの事では無く」

とこれまで言って一層落ち着いて弁護人の顔をジロジロと打ち眺めながら、
 「なお事によっては彼も弁護人の工夫に出たものかも知れません。弁護人は前もって我が弁護の届かないのを知ったため、アノ様な婦人を頼み、こうこうした時に、これこれを叫んでくれと言い含めてこの法廷に立ち入らせて置いたのかも知れません。下等の女役者に少しばかりの金を遣ればアレ位の芝居は喜んでするものです。それだからこの後三日が五日経っても同じ無名の婦人を証人として再び法廷に現れる事は無いでしょう。唯あのような事を言い立てて法廷から追い出されるだけが婦人の目的であったかもしれません。故に弁護人が何を言おうとも決して中止には及びません。直ちに審問を続ける事を願います。」

 澱みの無い弁舌で説き来る。妾もさては大鳥弁護人がまさかの時の用意にと彼がごとき無名婦人を入り込ませて置いたのかと且つ疑い且つ失望することとなった。

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