鉄仮面22
鉄仮面
ボアゴベ 著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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第十三回
この様にしてナアローがヒリップを雇い入れてから、もう六週間がたった。その間に彼らが何をしていたか知る由もないので、ここでは怪我(けが)人モーリスの事を話そう。
モーリスは四、五日は日に日に見回りに来る医者の目にも生きるか死ぬかの見極めが出来ない状態だったが、ただ愛深き妻バンダの介抱は医者の出す薬などより数段効いたらしく、一週間目ぐらいから少し快復の兆しが見え初め、それからは医者も驚くほど早く快復しだし、三週間後にはある上等な宿屋に移り、医者の許可が出て日頃親しくしている人々とも面会し、気の向いた雑談をする程になった。
病気中に見舞いに来た人はどれも秘密の友人で、あのオリンプ夫人もその中の一人だったが、夫人はこの地に長逗留するのを好まなかったので、普通の婦人に身をやつし、バンダの下部(しもべ)ブリカンベールに送られて密かにフランスへ帰った。
バンダは自分の命に変えてもと、ほとんど必死の思いで介抱し、モーリスが日に日に良くなるのを見て、この後の事が色々気にかかったが、もちろんモーリスを愛するだけで、別にオリンプ夫人のように政治上の考えがある人ではないので、モーリスの怪我は悲しがったが、このためにあの恐ろしい陰謀が止めになったなら良かったと安心し、一日も早くモーリスを元の体に直し、二人手を取り合って故郷に帰ろうと、そればかりを楽しみにしている様子なので、モーリスも時々顔をしかめることもあった。
何も知らぬ女の身でこの様に私を慕い、私のためにこの三、四年男の姿をしても、それをいやとも言わず、旅から旅へ果てもない苦労を耐えるだけでなく、ため息一つ漏らさないその心中を思いやっては、人知れず断腸の思いに涙を流すことも多かった。
ただ、幸いなことにこの頃、諸国遍歴の末だと言って、ある有力な仲間の手紙を持って来て、仲間になったオービリヤ大尉と言う者がいた。美しい笑顔の中にも、万人も寄せ付けぬ程の勇気を持ち、ともに軍の戦略を論じれば口角留まるところを知らず、一人危難の地に立たせても、普通の人より優れて役に立つ男のように思えて、モーリスは色々なことにかこつけては、何度かオービリヤを試してみたが、少しも疑わしい様なところがなかった。
万一、何かが起こって私が倒れても、この人ならば私に代わって部下の決死隊を率いる力があると見込んでからは、余ほどの秘密も打ち明けて話すのを見て、バンダも夫の大切な友と思えばこの人を粗略にせず、特にこの人が来る度に夫の顔色が晴れて、非常に快(こころよ)さそうに見受けられるので、この人こそは天から我が夫の全快を早めるために送られた、使者ではないかと思うほど喜び、帰る時には次に来る日を聞くほどの親密な間柄になった。
特に又、オービリヤ大尉は諸国を歩き回ったと言うだけあって、どの土地の事にも詳しく、つい最近まではフランスに居たと言って、パリの事については非常によく知っていた。ルイ王やルーボアのおごり高ぶった振舞いを話せば、モーリスを歯ぎしりをさせるほど真実に迫り、一転して芝居その他のことに移れば、バンダも自分の身のつらさも忘れ、長い間笑った事の無いその眉を開かせる。
実にこの人は、男女に対して一種の魔力を備えているかと怪しまれるほどだが、それやこれやの力でモーリスは六週間目には、馬に乗っても良いと、医者に言われるほどに快復してきたので、ある朝天気が良いのを幸いに、バンダの手を取って散歩に出て、ブリュッセルの名所など、そこここと見て回り、ついには町の郊外の小山の辺りまでやって来た。
生い茂る林を通し、木々の間を洩(も)れて来る日の光に身を晒(さら)し、小鳥のさえずりを聞きながら、ほとんど浮世を忘れたように、好い気持ちで歩き回って、バンダも、最早(もはや)モーリスが全く政治上の事を忘れ、安楽を好む人になったと、初めて人間に帰った気持ちになった。時々道端の草を摘んだりして、「ネエ、貴方、このような楽しい世界も有りますのに、これを捨てて世間を恨み、復讐だの、戦だのとそのような事にばかり関わっているのは、もったいないと思いますわ、もうあの手箱も焼き捨ててしまおうでは有りませんか。」と言うと、モーリスはビクリと驚いたが、やっと顔色を元に戻し、
「苦しむのも楽しむのも、人々の生まれつきだから仕方が無い。お前がそれほど旅の苦労に飽きたなら、今にブリカンベールが帰るから、彼を付けて故郷へ帰してやろう。そうさ、手箱も人手に渡すよりは、焼き捨てた方が安心かも知れない。」と言い、更にまた口の中で、
「ああ、可愛そうなのはただバンダだ。」とつぶやくとバンダはたちまち目元をうるませ、「先に一人で帰るぐらいなら、今まで旅は致しません、私は又貴方がアノ事は、もうお忘れになったのかと思いまして。」「堪忍してくれ、バンダ、一度の恨みは、晴らすまでどうしても忘れられないのが私の不運だ。そのためお前にまで、この通り苦労をかける。」
「アレ又その様なことをおっしゃる、苦労は初めから覚悟してます、貴方がこのことを忘れぬと言えば私は何も申しません。何処までも一緒に行きますがーーーーそれでは今日のこの散歩も」「オオサ、人里離れたこの森のはずれでパリからの密使に会うはずだ。」
決然とした一言にバンダはたちまち涙をおさめ、再びモーリスの心を鈍らせまいと強いて顔色まで引き立てたが、少し前の晴れ渡った顔には帰らなかった。「バンダ、悲しいか?」 「イイエ」、答えながらも背けようとするその顔を、モーリスは引き寄せてその額に熱いキッスをして、
「もう当分は、おちおち話すひまもないだろう」言う言葉も終わらない内に、一方の茂みをかき分け、「随分遅いではないか。」と言って立ち現れたのは、何とオービリヤ大尉の美しい顔だった。