鉄仮面42
鉄仮面
ボアゴベ 著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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第三十三回
あの憎むべきオービリヤが、夫人の愛する大事な人とはただ驚く以外にない。バンダは椅子から立ち上がって、「それは何かの間違いです。モーリスを初め一同に目を掛けて下さった貴方様が、回し者になるような根性の腐った人を愛するはずはありません。」夫人はまだ顔を隠したまま、「間違いではない。愛している。愛している。」
「今でもまだ愛しているとおっしゃいますか?彼がモーリスを初め一同の命を売った憎い仇と分かっているのに。」「バンダ、もう言っておくれでない。貴方はまだ何も知っていないのだ。」「いえ、知っています。一同の殺されたのは全く彼の仕業です。彼は犬です。人でなしです。自分の名を隠してモーリスに近づき、心にもない嘘を並べ、モーリスの心を盗んだ上、一同の秘密まで盗みました。人らしい心のある者なら、どうしてこのような浅ましい行いができるでしょう。」と胸に溢れる悔しさを吐き出すので、夫人も耐えかねて。
「いえ、ヒリップはそれほど浅ましい男ではない。ただ、ナアローの巧みな口先にだまされて、私がモーリスに心を寄せ彼を振り捨てたと聞いたから、彼はねたましさ、悔しさにその様なことをしてモーリスを仇と狙ったのだ。それも私を愛する心から出たこと。もしそのような妬みの心も起こさぬようなら、私も彼を愛しはしない」
「ええ、情けないことをおっしゃる。妬みか、悔しさか知りませんが、男の魂が有る者なら、誰があの様な事をしましょう。私の夫モーリスなら、たとえ、私に過ちがあって、彼が立腹するにしても、人を欺き、人を売る程の浅ましい心は起こしません。私を殺します。それこそ女の愛する男では有りませんか。」
「貴方には言っても分からない。私の心はそうではない。自分の愛する男が罪を犯せば、私も一緒に罪を犯す。心が浅ましいからと言って、一旦許した愛情が取り返せようか。ヒリップのためには家もいらぬ。位もいらぬ。こんなにまで思う私の心を察せぬとは、貴方も女ではないよ。」
恨みと恨みに言い合うのを、先ほどから黙って聞いていたバイシンは、聞くに耐えかねて進み出て、「お二人とも今はその様な言い争いをしている場合では有りません。ヒリップ殿とモーリス殿と、どちらが死んだのか分からない上に、その中のどちらか一人が捕まって、恐ろしい鉄仮面をかぶせられていると言うでは有りませんか。お二人とも力を合わせ、今は先ずどっちかと言うことを探り当てなくてはなりません。」
と両人の間に割って入ると、その言葉がもっともだったので、両人はたちまた我に返り、しばしの間、声もなく顔を眺め合うだけだった。コフスキーもようやく、「バンダ様、こちらが前から申し上げておりますバイシン様です。」と引き合わせた。
バンダはなおも悲しそうに「はい、鉄仮面がモーリスかオービリヤか、それを突き留めなければなりませんが、どちらにしても私とオリンプ夫人はもう今までと違います。夫人はあのオービリヤを助けたいとおっしゃるし、私はオービリヤを夫の仇、一同の仇と付け狙います。鉄仮面がいよいよオービリヤで、後日世の中に出るような事があったら、夫人とは敵どうしにもなります。」
「もしそれが、モーリス殿なら」「はい、あれがモーリス殿なら」「モーリス殿なら助けなければならないでしょう。どなたかと分かるまでは夫人も鉄仮面の身を調べ、貴方も鉄仮面の身を探る。
互いに助け合わなければならないはずですから、こうしなさい。」
「我々は三方にも四方にも立ち別れ、夫人はすぐにでも、パリに帰り、及ぶだけのつてを求めて、ルーボアの方から鉄仮面を聞き出すこと。コフスキー殿はこの地に潜み、鉄仮面がこの先何処に送られるか、隙(すき)なく見張つていて下さい。」
「多分パリだと思いますが、悪知恵に長けたルーボア等のする事なので、何時の間にどんな遠いところに流すか分かりません。鉄仮面の行方を見失ったら何もかもおしまいですから、たとえ、世界の果てまでも見えかくれに付いて行かねばなりません。」
賢女の指図をコフスキーは少しも拒まず、「いや、私もそのつもりです。鉄仮面の本体を突き留めるまでは、どのようにも変装し、忍び忍びにその辺に付いています。ですがバンダ様は」「はい、バンダ嬢はバンダ嬢で別に働かなければなりません。嬢には又それだけの仕事がありますから。」「と申して、バンダ様をお一人で手放す訳には参りません。」
「いえ、嬢には私が見えかくれに付いています。私の力に及ばなければ私の夫アントインに頼みます。彼ならばもう貴方が付いているのと同じです。もっとも、今の所はバンダ嬢一人で無ければかえって疑いを招きます。貴方が一緒でも夫アントインが一緒でも、いずれにしろ、いくらかずつはその筋の疑いを受けますから、疑われる者同士が一緒にいるのはこの上もない危険です。」
「今日限りここで分かれて少しほとぼりの冷めるまで四方へ散るのが第一です。四方へ散って別々に調べて、一番初めに鉄仮面の本体を突き留めるのは必ずバンダ嬢だと思われます。」
バンダ嬢が一番先とはそもそもどんな工夫が有るのだろうと、三人は一斉に目を見張った。