鉄仮面50
鉄仮面
ボアゴベ 著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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第四十一回
多年モーリスの憎んでいたルーボアに会おうとは、本当に思いも掛けなかった事なので、バンダはその名前を聞くだけではっと驚き、顔色が土のように変わり、体は恐ろしさに震えだすほどだったが、我が夫を初めとして、同志一同が死んだのもこの人のお陰げと思うと、沈む心も引立て、密かに彼の顔つきをながめると、
フランス未曽有の大政治家ルーボアの侯爵、本名フランシス・ミッチェル・リテイリエイは年齢三十二歳と聞いたが、見たところは四十歳ほどにも見え、身の丈はそれほど高くはないが、全体の頑丈なことは切り出した岩石のようで、何処にも寛容なところが無いような残忍酷薄の人相をむき出しにして、色は肉の底まで黒く、ほとんど紫色を帯びているかと疑うほどなので、顔全体に怒りを含む様に見え、王族も軍人もただこの色を見るだけで、彼の前で恐れおののくは無理もない。
しかし、これよりも更に恐ろしいことは彼のたくましい眉毛(まゆげ)で物を言う度に上下に動くだけでなく、眉間(みけん)に少しの隙間(すきま)もなく、右と左から鼻の上でつながって、非常に太い一の字を描き、その下に鋭い目がらんらんと光り、人を射ている。顔中どこにも愛想と言うものがなく、ただすさまじい顔つきと言う以外に言う言葉が無い。その上、彼の衣服も優美な宮廷風の物ではなく、粗末な略服で頑丈な彼の姿に、益々威厳を添えるばかりだ。
バンダがこの様にながめるうちに、判事夫人は慌(あわ)ただしく立って行き、非常に丁寧(ていねい)に挨拶(あいさつ)をし、ベスモーは叱られるのを待つ囚人のように、体を二つに折って首を垂れ、彼の荒々しい叱りを待っているが、彼は思った通り割れ金の様な声で、「何だ所長、この有様は、大事な職務を捨てておいて飲む酒はそんなにうまいか」所長はただ縮み上がり「いや、閣下、侯爵、貴方様がおい出になろうとは思ってもいなかったものですから。」
「私が来ないから職務を怠(おこた)って良いと言うのか、宰相は国王を代表し、国家を代表する役目だ。国家の仕事は一刻も捨てては置かれないから、夜の夜中でも出張するのだ」所長は言い訳の言葉も弱々しく「いや、何時おいでなさっても、決してお手間は取らせません。」「言うな、言うな、いま丁度囚人の夕食時ではないか。それには構わず官邸で酒を飲むとは、それだけ職務を怠ると言うものだ。なぜ第二塔に行って囚人の食事が済むまで待っていないのだ。」
第二塔とは鉄仮面が押し込められているところで、囚人とはすなわち彼の事だろう。所長は益々恐れて、「いや閣下、第二塔へは私の下役がついています。決して間違いはありません。下役ならいや私と同じです。」ルーボアは自分に向かって細々と、弁解する者を好まず、一段と声を張り上げて「何だ、下役がその方と同じだと、それではすぐに下役を所長に昇格させその方を免職にする。国の費用多端の折から、十分役に立つ下役がおりながら、高い給金の所長を雇っておくわけにはゆかぬ。」
所長は風にそよぐ葦の葉のようにおののき「もう恐れ入りました。早速私が第二塔に出張し、下役と替わります。」と床に額をこすりつけるばかりだった。この様子を見て判事夫人は、この場がどの様に治まるかと気づかって、ほとんど今晩招かれて来た事を悔やむようにその場でまごまごし、バンダも大体同じ思いだったが、はしたない自分の心を現すまいと固く唇を閉じたまま、うつむいて控えていると、この時ルーボアはなおも鋭い目で部屋中を眺め回していたが、何を思ってかずかずかと前の方に進み出た。
その顔色は又一層すさまじかったので、居合わせた給仕まで恐れて後ろに引き下がった。判事夫人は逃げ隠れる穴はないかと言うように、いたずらに辺りを見回し、所長は自分が鞭打たれるのかと思い、短い首を縮めこむと、ルーボアはただバンダの前に来て立ち止まり、異様な目でバンダの顔をながめ始めた。バンダは蛇に魅入られた蛙のように、動くに動けず、目をテーブルの上に落として、見上げる力も無かったが、ルーボアの眼光がぴたっと自分に注がれていることは、ただ自分の神経に映って十分良く分かった。
彼の目には言うに言われぬ力があった。あたかも自分の瞼(まぶた)を射られて、ほとんどまばゆいほどに思われ、心の底まで射貫かれる気持ちがしたが、これを払う方法もない。ああ、我が夫の仇敵(きゅうてき)ルーボアがいま自分の前にいる。私の顔をながめるばかりか、私の正体を見破るのではないかと思われる。彼の口から私の名前を問い、私を捕らえさせるのは、今、三分、二分、一分の間にも出来るだろう。
捕まえるなら捕まえて見よ。モーリスの妻には魂がある。彼を目の前でののしって、モーリスの恨みがまだ消えていないことを知らせてやると、自分の非力も顧みず、「當郎の斧」のたとえのように弱者が強者に立ち向かうような無駄な考えを、起こすのも烈女の本性と言おうか。ルーボアはしばらくながめた後、斜めに所長を振り返り、「この婦人は誰だ。」と問い、すぐに返事が返らないのを見て、すぐにバンダに向かって「これ、婦人、貴方は誰です。」と不躾(ぶしつけ)に問いかけた。
バンダはぴくりと動いたが、何と答えたら良いか分からず、ただ満ち溢(あふ)れている彼の威厳に自分の息がふさがるかと思うばかりだった。