aamujyou83
噫無情(ああむじょう) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ビクトル・ユーゴ― 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
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噫無情 仏国 ユゴー先生作 日本 涙香小史 訳
八十三 神聖な役目
世の中にもう何の楽しみも無い、彼は尋ねる丈尋ねたけれど、雲を掴む様な者で、尋ね当てられる筈は無い。或時往来で確かに白翁と思う人を見受けたけれど、その人は職人の風をして居た。慈善家とも言われる人が、職人の風をする筈は無いから、別人かとも思ったけれど、イヤそうでは無いと、直ぐにその後を尾けようとしたけれど、もう何所へ行ったか分からなかった。
妙に此の事が守安の気に掛かった。若しや彼の人が、何か難儀な場合に成って、黒姫までも共々に困って居るでは無かろうかなどと。併し余り取り留めの無い心配だから、イヤ全く人違いで有っただろうと思い直して止んだ。
その中に冬も夏も経った。彼はABCのクラブへも、止むを得ない時の外は行かない。此の世に唯一人の懇意とする、真鍋老人の許をも余り尋ねない。それよりも彼には神聖な役目がある。それは父の遺言に在った、手鳴田軍曹と言うのを捜し出す一条である、是のみは絶えず気に掛かって居るけれど、それも為さない。
殆ど彼の魂は、黒姫の姿と共に抜けて仕舞ったのだ。何所かへ消えて無くなったのだ。凡そ一年の間に、彼の為した仕事とも言うべきは只(たった)一個だ。それは秋の頃であった。以前から隣の部屋に居る、彼の伊(イタリア)、波(ポーランド),西(スペイン)、仏(フランス)四ケ国兼帯《兼任》の下宿人が、二カ月も宿銭を払わない為め、此の宿から追い出されるとの事を家番から聞き、余り気の毒に思い、自分の財布に二十余円あった金を、残らず家番に渡し、何(どう)か之を誰からと言わずに、四国兼帯の人へやって呉れと言って恵んだのである、
先ずこれらが聊(いささ)か常と違った事柄で、その外は毎(い)つも毎つも同じである。唯だ塞(ふさ)いで居る。時々に筆を取って。潤筆(じゅんぴつ)《書画や文章を書くこと》料を得て命を繋(つな)ぐと言うのみである。
「嗚呼黒姫は何処へ行った。」
口に洩れる言葉と言えば唯此の一語である、
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