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悪党紳士 (明進堂刊より)(転載禁止)
ボアゴベ作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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悪党紳士 涙香小史 訳
第十回
三女打ち連れて家に入ったが、お蓮は私(ひそ)かに、鶴女にだけ話そうと思う事があるので、先ず愛女(むすめ)お仙に向かい、
「お前は奥に行って、洋琴(オルガン)でも演習(さらへ)てお在(いで)。阿母(おっか)さんは少し鶴に話が有るから。」
と云うと、逆らう色も無く、其の儘(まま)一人奥の室(ま)に入って行った。後にお蓮は鶴女に向かい、声を潜(ひそ)めて、彼の花房夫人の死んだ事から、遺言書が手に入った事まで、先に有浦に話した様に、曲者の事を推隠(おしかく)して、辻褄(つじつま)の合う様話終り、猶(なお)も一段声を低くし、
「斯(こ)う云う訳なので、花房夫人の事を私の口からその筋へ言い立てるのは、何だか危険な気がするし、と云って其の儘(まま)置けば、夫人の遺言にも背くので、何(ど)うしようと思って居る中、幸い親切な人が有って、夫(それ)と無く言立てて遣ろうと言うから、好い様にと頼んで置いたが、夫に附けても、お仙の事が気に成るから、今日は傍々(かたがた)尋ねて来た。別に異(かわ)った事も無いだろうね。」
鶴女は聞き終わって暫(しば)し考え、
「成る程、それで分かりました。此の頃何(ど)うも気味の悪い事が有るのですよ。毎夜何者とも知れ無い者が、此の家の四辺(あたり)を徘徊(うろつき)ます。昨夜も九時頃、窓の外で人の足音が仕ますから、開けて見ると、怪しい男が屈身(しゃが)んで居ました。此の淋(さみ)しい田舎で、知ら無い人が入り込むと云う事は、決して無い所ですから、私は喫驚(びっくり)して、
「此の人は先ア何を仕て居るのだネ。」
って大きな声を出しましたら、ノソノソと裏の方へ廻りましたから、直ぐに方々の戸締りをして、其の儘(まま)寝て仕舞いました。」
(蓮)シテ其の人は何の様な風で有った。
(鶴)夜分だから充分には分かりませんが、長い髯が有りました。
お蓮は、若しや縦覧所で、我が耳に細語(ささや)いたのと、同じ人では無いかと思うので、
「若しや職人風では無かったかえ。」
(鶴)夫(それ)を貴女が何うしてご存知です。
と問はれて、ハタと返事に詰まり、
「イエ、何アの、爾(そう)さ、私の所へ写真挿(ばさ)みと手紙を投げ込んだ人が、矢張り髯の有る職人風で有ったから。」
と体よく言抜けた。そもそもお蓮は、何故にこの様に堅く先の夜の誓いを守り、曲者に義理立てして、其の事を露程も、口外しないのだろう。是は曲者を恐るればかりからでは無く、我が言葉を重んじる為である。
西洋の人は、総て誓いと云う事を重んじ、一旦誓った事は命に掛けても之を守るのを、人たる者の努めとしている。故に仮令(たとえ)曲者の知ら無い場所であっても、之を守るのは、其の目の前と異(かわ)る事は無い。この様にするからこそ、真の誓約と云う事が出来る。鶴女はお蓮の口振りの怪しいのには気も附かず、又も其の言葉を続け、
「イエネ。未だ恐ろしい事が有るのですよ。四、五日前にも、嬢様が公園に散歩成(なさ)って居る所へ、後ろから矢張り職人風で髯の有る男が現れ、出し抜けに嬢様にを攫(さら)って行こうと致しました。其の時丁度、若旦那風の立派な方が近くに居て、駆け付けて曲者を突き倒し、嬢様を助けて、此所まで連れて来て呉れました。
(蓮)其の若旦那風の人とは何者だ。
(鶴)何者か分かりませんが、イエ何是は怪しい人では無い様です。
と言つつ、一際声を下げて、
「ですがネ、是にも心配な事が有りますよ。嬢様も最(も)う年頃ですから、其の若旦那でも見初めたのか、其の時から洋琴(オルガン)に向かっても、何だか昔の恋歌(こいか)ばかり唄っています。夫(それ)に又、其の若旦那も嬢様を踪(つ)け廻って居る様です。今も貴女が入(いら)しった時、其の若旦那は公園を散歩して居ましたが、何時でも、嬢様が洋琴(オルガン)を調べて居る時には、裏庭へ廻って聞き惚れて居ますから、若し間違いでも有ってはと、私も心配でなりません。それにネ、私には話ませんけれど、嬢様は若旦那と口でも聞いたと見え、其の名前まで知って居る様子ですよ。」
此の訴えを聞き、お蓮は心配に成り、
「それは聞き捨てに成ら無い事だ。私が篤(とく)と聞いて見よう。」
と云いながら、座を起(た)って奥の間に入って行くと、愛児(むすめ)お仙は何処(いづこ)に行ったのか、洋琴(オルガン)の前には、空椅子が有るだけで、当人は影も形も無い。さてはと思い裏庭に出て見ると、衣服も立派な一人の少年と、草花を摘みながら、何事か打ち語らっている様子なので、
(蓮)仙や、用事が有るから御免を蒙(こうむ)って、此方(こっち)へお出で。
と呼ぶと、少年は極まり悪そうに首べを垂れ、静かに裏門を潜(くぐ)り出て、お仙は早足で、母の傍に走って来た。
やがて洋琴の前に座わらせて、
「今の人は誰です。エ。」
お仙は其の父、丈次郎から英国人の直き気象を受け、母からは仏国人の開けた、曇りない心を受けたと見え、思う事を少しも隠し得ない性(たち)なので、臆する色も無く、
「アレハ私の恩人ですよ。意中(えい)人ですよ。」
お蓮は呆れて、
「意中(えい)人などと、その様な言葉を使う者では有りません。其の訳さえも知らずに。」
(仙)訳は知って居ますよ。「ロメオ」(昔の物語に在る人)はジリエットの意中(えい)人でしょう。夫(それ)で庭先から「ジリエット」を、覗くのでは有りませんか。私しの恩人も庭先で、私しを覗くから意中(えい)人です。「ロメオ」と同じ事です。
此のあどけない説明(ときあか)しに、お蓮も一廉(ひとまず)は安心し、
「お前、ロメオだのジリエットなどと、沙翁(シェクスピア)の人情本など読んでは成りません。」
(仙)だって洋琴の歌に有りますもの。
お蓮も成る程と心附き、
「それよりお前、アの方の名を知ってお在(いで)か。」
と問えば、お仙は何か思い出した様に、
「アア、阿母(おっか)さんに聞こうと思って居ました。伯爵とは何ですか。」
(蓮)伯爵とは貴族の位さ。
(仙)イエ夫は知って居ますが、子爵ヤ侯爵より上ですか。
(蓮)侯爵と子爵の間ですよ。
(仙)夫(それ)なら彼(あ)の方も、侯爵と子爵の間です。伯爵だって言いますから。
お蓮は、今まで巴里の交際社会に鳴り渡った美人にして、巴里広しと雖(いえど)も、お蓮の知ら無い貴族は無く、又お蓮を知ら無い貴族もなければ、伯爵と聞いて不審に思い、
「其の苗字は何と云った。」
(仙)伯爵綾部安道(原名アルベン・アンドル)と云いました。
(蓮)ハテな、巴里には綾部伯と云う貴族は無いが。
と言って暫(しば)らく考えていたが、此の上お仙に問うても、固(もと)より分かる事では無い。直々少年に逢って、其の身の上を問糺(ただ)し、若し怪しい者であったなら、再び此の家へ踏み込ま無い様、堅く断って置くのが好いと、健気にも思い定め、又起(た)って単身(ひとり)庭口から裏門に行き見ると、少年は未だ帰えらずに、其の外に佇(たたず)んで居た。
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