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巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2010. 12. 31
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
十六、出世と言う一語
土牢に入れた友太郎が牢の中で、どの様なことになるかはしばらく後の話に、まわして置かなければならない。
* * * *
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ところで、お露に引き止められた蛭峰検事補は、うるさいと言う風で、著しく眉をひそめた。けれど、お露はそのようなことに気遣ってはいられない。心の底から搾り出すような声で、「貴方は団友太郎をどうなされました。彼はいまだに釈放になりませんが。」
この一語でさては友太郎の許婚の女かと気が付いた。そうして彼の顔はたちまち青くなった。幾ら自分の出世のため、ほかの事は少しもかまわないような人でも、自分が人一人の生涯を土牢の中に埋めてしまったと思っては気が咎めない訳には行かない。しかもその人というのが当年わずか十九歳で、まだ限りない春秋《歳月》をそして前途に非常な見込みもあり、特に今まさに最愛の女と婚礼をしようと言う人生第一の喜びに際していたのだ。
自分の今の境遇《身の上》に引き比べて、十分同情を表すべきであるのに、かえって、その人を生きながら地獄の底に入れてしまった。これがどうして気が咎めずに居られようか。
お露の切なる言葉は、あたかも罪人に対する裁判官の言葉のようにこの人の耳に響いた。
人を裁判する身が、かえって一少女に裁判せられるのだ。彼は、ようやく、震えるばかりの声で「イヤ、友太郎という先刻の容疑者のことか。オオ、彼は重い罪人だから、私の力ではどうすることも出来ない。」
露;「でも、今何処にいるかは貴方はご存知でしょう。友太郎は何処の牢に入れられましたか。どうか、それだけを私にお聞かせください。」
蛭;「ハイ、それは知りません。彼は既に私の手を離れて、外の役人の手に移ったので私に聞いても分かりません。」
ヤッとこれだけの言い訳を吐いて、振り払うようにして家に入り、内から堅く戸を閉ざした。
余談ではあるけれど、お露はよろめいて家に帰り、そのまま倒れて、翌朝まで、ただ泣き明かした。傍(そば)にはあの次郎が夜通し付ききりで介抱した。けれど、お露は何事も感じない。全く一心が友太郎に凝り固まって、一切外の感覚を失った状態である。
次郎はお露の背をさすりもした。その手を取って、その甲にキスもした。お露の方では総て知らない。翌日、遅くなって後、初めて泣き止んで気が付いた。「オヤ、次郎さん、貴方がここに居てくれたのですか。」と不思議な顔で聞いた。
「オオ、居なくてどうしよう。」俺は昨日から片時もお前の傍から離れはしない。」と次郎は悲しそうだか、恨めしそうだか、何時もとは違った声で叫んだ。
それはさて置き、蛭峰検事補は家に入って直ぐに自分の居間に駆け入ったが、寸刻も猶予している場合ではないのに、テーブルの上に首を垂れ、考えるのはよそうと思いながらも考え込んだ。
罪も無い一人を、だましてこの世に出られない者にしてしまったとの思いが、幾ら落ち着けても湧き出てくる。続いては今見たお露の悲しそうな顔も、実物よりはもっと悲しそうに目の前に現れて、恨みながら訴えているようにも思われ、その上、又友太郎が幽霊のように自分の家に出てきて、復讐を迫るように思われる。
嗚呼、この人、今まで自分の雄弁を以て何人の罪人を死刑台に上らせたか知れない。けれど、その度に自分で自分の手際を喜び、非常に嬉しく思いこそすれ、かって一度もこの様な恐ろしい思いをしたことが無い。それはなぜだったのか、今までの場合は総て向こうに罪があると信じたためである。総て自分が正直に職務を尽くしていると信ずるがためである。
今の場合は、これとは違う。真に根本から違うのだ。同じく人一人を押しつぶすにしても、今度の場合は罪の無い人である。そうして、自分が職務に背いているのだ。単に自分の私欲のために、人に知られてはならないことをしたのだ。もし、今ここにお露が再び現れ来て、「どうか友太郎を返してください。」と頼んだなら、彼は最早やこれを拒む力もなく、釈放状を書いて署名したかもしれない。
あるいはお露ならずとも、自分の許婚礼子がここに来て、総ての容疑者を「慈悲深くしてやってください。」と説いたなら、全く友太郎をこの世に引き戻す気持ちになったかも知れない。
彼はおよそ二十五分間ほども、この様に一人後悔の念に攻められていたが、やがて、「エエ、この様に心が弱くて、出世が出来るものか。」と叫び、決然として立ち上がった。
アア、出世と言う一語は、人にどれほど異様な決心与えたのだろう。政治家の野心も、世の中の争いも、血も涙もこれから出るものが多い。
こうして、蛭峰は早々に旅支度を整え、箪笥(たんす)の引き出しにある、金貨や銀貨を残らず財布へさらえ込んで、狂人のように再び家を出た。この時は勿論夜に入っている。
そうして米良田伯爵の所に駆けつけると、早や手紙が出来ていた。一通は仲買人宛て、一通は国王の傍近くに出入りする宰相へ宛てている。まさか国王に直接検事補の謁見を請うのは、はばかったと見える。しかし、米良田伯爵は納得の行くように、昼峰に言った。「この手紙をさえ出せば、必ず宰相が貴方を陛下の前に連れて出てくれます」と。蛭峰は一刻も無駄に失えない場合なので、直ちに別れを告げ、馬や車の急げるだけの速力をもってパリを目指した。
この時は早や電信と言うものが出来ていて、政府の用だけには使われていたが、蛭峰の野心のために使うことは許されなかった。たとえ許されても、昼峰は、電信では自分の熱心な忠勤を国王に見せることが出来ないと思っていた。
彼のパリー行きはまさにこれ、ナポレオンが既にエルバ島を脱して、フランスの本土に足を掛けたか掛けないかの時である。フランスと言う大舞台に又も活劇の幕が開かれようとする間際であった。
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