巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

百七十七、『蛭峰家』(四)

 華子は我が名を呼ぶ森江大尉の声に、嬉しそうに塀の際に走り寄ったが、垣根一重隔てたこちらとあちらでどの様な話をする事やら。
 そもそも森江大尉は昨夜野西家のパーティーで、華子の許婚の夫毛脛安雄が早やローマを立って、帰国の途に上ったように聞き、最早全く華子を失わなければ成らない時が来たと思い、死刑の宣告をでも受けた様な人のように落胆して帰宅し、それから夜一夜を考え明かしたけれど、到底華子を失ってこの世に生きている心は出て来ない。真に命よりも深い愛が心の底に根ざしているものと見える。

 しかし又思いば、華子の方も心は私と同じ事だから、私が華子を失うことの辛さと同じく華子も私と分れては生き長らえる気もしないだろう。この様な間柄であるのに何も浮世の義理に隔てられて辛い思いをする必要は無い。互いに心を合わせて他国に駆け落ちすれば好いことだと、身分も、名誉も全て忘れて、ついに駆け落ちを華子に勧めるという気になって、今朝は早くからここにたたずみ、華子の姿が見えるのを待っていたのだ。

 もしも華子が愛より義理を重いと考えて、そのような短慮は出来ないと言えば、その時は自殺するまでのこと。自殺はしてもそれでもまだ華子を諦める事は出来ないから、自殺よりはどうしても華子を説き伏せなければ成らないと、一心凝り固まった状態てあった。
この様な間柄であるから、二人は垣根一重隔てて泣きもした、嘆きもした。

 けれど、親を捨て義理を捨てて、駆け落ちするという事は、深窓の中に育った華子にとってはあんまり恐ろしすぎる事柄である。だからと言ってこれを嫌と言えば森江大尉は死ぬのだ。大尉を殺すか家を捨てるかと言う間に挟まれては、まさか大尉を殺す方に決心することは出来ない。まして自分だって大尉が死んでは生きていることは出来ない。詰まり二つの命がなくなるという場合である。

 華子はついに大尉の考えに従う方に決した。勿論、この様な年頃で、義理と言う事をそう深くかみ分けることは出来ず、かえって愛ということに気も心もくらんでしまったのである。しかしそれもあるだけの不都合を言い尽くし、出るだけの涙をも流し尽くした後であった。

 そうしていよいよ二人の決めた約束は、華子の婚礼の調印が最早どうしても明日の晩よりは延びないから、いよいよその場合となって到底逃れることが出来ないとなれば、華子は言葉を尽くしてその場を外し、ここへ逃げてくる事、その時には森江大尉が、旅行の馬車をこの垣根の外に置いて、直ぐに華子をのせて一緒に他国へ逃げ去ることと言うのであった。本当に若気の為とは言え、無分別の至りである。

 このようにしていよいよ翌日になると、午後の二時頃に華子から森江の所に走り書きの手紙が来た。婚礼の調印は夜の七時に決まったと書いてある。森江は最早驚きもし無い。ただその手紙を華子の真心の籠もったものと知っているために、何度も読み返した上で、肌身に付け、直ぐにそれから種々の用意に着手し、七時から余ほど前に馬車をも調え、約束の所に来て待っていた。

 ところが約束の時間に七時にはなったけれど、華子から音沙汰が無い。或いはいよいよという場合に華子の決心が緩み、仕方なく調印したのではないだろうか。それとも逃げ出してくる道で捕まったか。或いは心に恐れを抱き、どこか途中で気絶デモして倒れているのでは無いだろうかと、それからそれへと心配して、気が気ではないほどの思いをしながら、ついに九時過ぎまでも待ったが、もう到底待つことは出来ない。

 試案も何も尽きてしまい、前から華子を抱えて塀を越す為に準備してあった、縄梯子を馬車の中から取り出して、苦も無く塀を乗り越えた。そうして蛭峰の屋敷の中に入った。
 中の様子は日頃華子に聞くなどして良く知っている。先ず野々内弾正の隠居所を回って母屋の裏口に近づこうとすると、その裏口から背の高い紳士が歩み出た。

 これは確かに蛭峰である。見咎められては大変と、慌てて庭木の後ろに身を隠したが、続いて又一人の紳士が出た。これが或いは毛脛安雄ではないだろうか。早や婚礼の調印を済ませて蛭峰と共に嬉しさを語り合うために庭の表を散歩に来たのでは無いだろうかと、様々な疑いが沸き起こって、腸(はらわた)も千切れるような思いである。

 けれど飛びだして、安雄かと思われるその紳士に飛び付くわけにも行かないから、仕方なく息を詰めて二人の言葉を聞いていた。

第百七十七 終わり
次(百七十八)

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