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巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2010. 12. 17
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
二、お露は情婦では有りません、許婚です
皇帝の事を問うその様子、その言葉つきで見ると、この森江氏も確かにナポレオン党の一人である。団友太郎は答えた。
『私からは何も言えませんでしたが、皇帝のほうから巴丸のことを熱心にお聞きでした。
「何時マルセイユ港を出たか、積荷は何で持ち主は誰だ。何処を経て来た。」
などと、ハイ、そのご様子で見ると、もしこの船が私のもので荷物を積んでいなかったら、お買い上げになっていたかもしれません。
森江さん、皇帝は貴方の家筋を良くご存知でしたよ。
「オオ、船主は森江家か、アレは先祖から代々の船主だ。そのうちの一人は朕(おれ)と一緒の兵営で同じ隊に居たこともある。」
こう仰(おっしゃ)いました。』
森江氏は少し感激して、
「オオ、それはわしの伯父のことだよ、団君、ついでがあったら伯父に皇帝がこう言ったと話してやってくれ。どれほど喜ぶかも知れない。」
感激はしても、用事は忘れない。流石事に慣れた事務家である。こう言って更に用事に返り、
「兎に角船長の遺言を、そのままに果たしたのはでかした、でかした。」
褒めてまた更に気づかはしそうに、ちょっと辺りを見回して声を低くして、
「けれど、団君、時節がらだから、人にこのような事を話してはいけないよ。エルバ島に立ち寄ったの、将軍に小包を渡して、皇帝にも会ったのと、もしその筋の耳に入ってはどのような目に会うかもしれない。」
友太郎は物事にこだわらない少年の常として平気である。
「エルバ島には誰でも上陸するでは有りませんか。私は小包の中に何が有るかそれさえ知らず、ただ誰でもすることをしただけですから。」
いかにもその通りである。船長の死に際の頼みを果たしたと言うに過ぎないのだから、党派に関係したのでもなければ政治上の意味も無い。誰にも咎められるべきはずが無いのだ。けれど、森江氏のこの戒めは間もなくはたと思い当たる時があった。
それはさて置いて、この時丁度検疫官と税関吏が船に来たので、友太郎は急いでその方に行ったが、後で直ぐに例の段倉がやって来た。彼は何所かで森江氏と友太郎との問答の様を盗み見、盗み聞いていたのだろう。例の通りの猫なで声で、
「団君が満足に弁解が出来たと見えますね。」
森江氏;「オオ、最も満足に」
段倉;「それは結構でした。実に同僚の者が間違ったことをするのは傍で見ていても心配でなりませんから。」
森江氏;「何も団は間違ったことをしたわけではない。船長の死に際の頼みを果たしたに過ぎないのだ。」
段倉;「では貴方にも船長からの手紙をお手渡ししたでしょうね。」
森江氏は少し驚いて、
「エ、船長からわしへの手紙、そのような物を友太郎は預かっているのか。」
段倉;「ハイ、彼の小包のほかに船長は、貴方への手紙を団君へ」
森江氏;「待てよ、待てよ、小包とは。」
段倉;「団君がエルバの島に持って上がった小包です。」
森江氏;「どうして君がそのような事を知っている。」
この問いには、人の事を盗み見たり、盗み聞いたりする自分の癖を白状しなければならないので、段倉は少し顔を赤らめたがやがて、
「実は船長の部屋の前を通り合わすと、その戸が少し開いていまして、小包と手紙を団君に託すところが偶然に私の目に留まりました。」
森江氏は少し考え、
「いずれにしても、まだ団はわしにその様な手紙を渡さぬ。」
これから直々に団少年を問うには決まっている。段倉は慌てて、
「でもどうか団君には私が告げ口をしたようには、仰(おっしゃ)らないように願います。」
なかなか用心が綿密である。このように言い置いて段倉はまた退いた。
「団君、団君」
と森江氏は呼び立てた。友太郎は、
「やっとこれで一切の事務が終わりました。税関吏、検疫官への手続きもそれぞれ運んでしまいましたから。」
と安心の様子で雇い主の前に立った。
森江氏;「まだ忘れていることは有りはしないか。」
団;「イイエ、何にも」
森江氏;「では上陸して、これからわしの家に行き家内と一緒に食事をしよう。」
友太郎は迷惑そうに、
「上陸したら直ぐに父のところに行きたいと思いますが。」
短い言葉のうちに孝心が現れている。森江氏は感心して機嫌よく、
「それは良い、それは良い。わしとても息子が有る。もしもその息子が長い旅から帰って来て第一に父を尋ねてくれないようなら、良い気持ちはしないだろうよ。わしも実はお前の父がどう暮らしているか気にかからないではないが、少しも父は顔を見せないが、まず自分の家にひきこもっているのは別に不自由の無い証拠だろう。」
団;「イイエ、父はあの通りの昔気質ですから、よしや飢え死にするほどの不自由があっても、外に出て、その様を人に悟られるようなことは致しません。」
森江氏;「なるほど、その通りの気質だから、なお更お前も気にかかるだろう。早く土産物でも持って行って安心させてやるが良い。金はいくらでも貸してやるから、」
団;「イイエ、お金は父親のものと思い、三月分の給金を手付かずに貯めてあります。」
森江氏;「イヤ、本当に若いのに感心だよ。父に会ったらその次にはわしの家へ、なァ、」
団は又も迷惑そうに、
「折角のお言葉では有りますが、その次には」
森江氏は余程この少年を愛していると見え、
「オオ分かった、皆まで言うな。スペイン村の別嬪(べっぴん)に顔を見せなければならないのだろう。お前の留守にも店に三度ほど何か便りは無いかと言って自分で聞きに来た。あれもなかなか感心な娘だよ。お前の留守に心も変わらず、器量と言えばあの通り十人にも二十人にも優れていて本当に良い情婦(いろ)を持ったなア。お前は幸せ者だよ。」
冗談にからかっている。
友太郎は顔を赤くして、
「お露は情婦(いろ)では有りません。許婚(いいなずけ)です。」
森江氏は打ち笑って、
「どっちでも大抵は同じことよ。」
団;「イイエ、私とお露の間は違います。」
躍起になって弁解するうちが花だ。
森江氏;「兎も角も早く上陸して、行くが良い。」
少年はうれしさに気も急いて、
「ではこれでお暇(いとま)を」
森江氏は段倉の言葉を思い出した。
「だが何もわしに言い置くことは無いか。」
団;「何にも有りません。」
森江氏;「もしや船長からわしへの手紙を預かっては居ないか。」
団;「イイエ、何の手紙もと」
言い切ったが更に、
「オオ、そのお言葉で思い出しました、私は数日のお暇を頂かなければなりません。」
なにやら手紙を預かっているらしい。但し、森江氏に宛てたのではないのだろう。
森江氏;「アア、数日の暇を取って婚礼するのか。」
団;「ハイ、婚礼も致しますが、そのほかにパリへまで上京しなければなりません。」
さては、その手紙をパリまで持って行って届けるのか知らん。
森江氏;「それもよし、巴丸の次の出帆までには余程間が有るから、けれど、三ヶ月のうちには帰ってくれなければ、エ、船長を陸において船ばかり出すわけには行かないから。」
この一語はお前を船長に取り立てたと言うも同様である。団もまた顔を赤くして喜び、
「私が船長ですか、どうか生涯に一度は船長になって見たいとーーー」
森江氏;「組合人へ相談の上で取り立ててやるわ、けれど、今から聞いて置きたいのは、お前が船長になっても矢張り、段倉を使っておくがどうだ、今回の航海で段倉をどう見た。」
友太郎は有りのままに、
「ハイ、私と余り仲は良くありません。先日も少しの争いから、では巌窟島に上がって決闘しようと挑みました。これは私が悪かったのです。段倉君が応じてくれなかったことを今は有り難いと思っています。けれど、船の荷物係としては少しも落ち度は無い人です。」
森江氏;「落ち度が無いから引き続き雇って置くと言うのか。」
団;「勿論です。役目の上では毛嫌いとかは有りません。何でも貴方のいや雇い主の信頼する人を私は敬って行くのです。」
公明正大とも言うべき返事である。森江氏は全く満足して、
「では、早く父やお露を喜ばせてやれ、」
二十歳に足るか足らないうちに、船長という約束を得るとは、余程出来た人でなくてはならない。実際類の無いほどの出世である。友太郎は喜色面に満ちて森江氏に別れ去った。森江氏も感心の面持ちで友太郎が小船を漕ぎ去る後ろ影を見送ったが、森江氏の後辺から同じく彼を見送る段倉の顔には上辺にこそ、それほどまでには見えないが、全く嫉(ねた)みの念が皮一枚の底に燃えていた。
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