gankutu270
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
二百七十、『結末』 (二)
武之助の出発を見届けて伯爵が安心したのは無理もない。実は武之助が少尉となりえたのも、内々伯爵が運動した結果である。それだから伯爵はこのマルセイユへ来るに付けても、どうか彼の出発に間に合うようにと、特に馬車を急がせて、着するや否や直ぐにこの波止場に来たのだ。
これで武之助母子の身には、再び花咲く春が返ってくる見込みがついた。最早伯爵は我が親切の届いた者と思って良い。けれど目の当たりに母子の別れの悲しそうな様子を見て、又気の毒な場に耐えられず、我が復讐がひど過ぎたかとの疑いがひしひしと身に徹(こた)えてくる。
この疑いはどうすれば解く事が出来るだろう。アアそれには、昔我身が蒙(こうむ)った災難といえば、再び泥埠(デイフ)の要塞に行き、土牢の跡を見るのが良い。そうだ、直ぐに泥埠へと、日頃何事も思案に富んだ胸のうちで咄嗟(とっさ)の間に思い定めた。
ああ、この人にして再びかの場所を訪れるとは、どれ程か心が動かされることだろう。ただ泥埠の名を思い出しただけで、早や胸の騒ぐように覚えた。けれど、何気なく装って、先ず大尉に向かい、
「これから小舟で海へ出て見ませんか。」
と誘えば、
大尉;「イヤ、私はこの土地には種々の思い出すところなど有りますので、それらをも見回り、かつ父の墓にも参りたいと思います。しばらくここで分かれましょう。」
さてはこの世の名残として、幼ななじみの場所などをも見、父の墓にも暇を告げるためとは見えた。伯爵は軽く、
「なるほど父上の墓へ」
と言い掛けたが、後の語は口から出ない。これが父の墓ぞと目指すことが出来るような墓が有るのは、この身に比べてどれ程の幸いだろう。
我が父はこの身が土牢にいる十四年の間に、飢え死にして共同墓地に葬られはしたけれど、この身が出て来て見た時には、一本の杭さえも立っていず、どこが墓、どれが碑と、指差す目印も無くなっていた。果たして何処にその骨が朽ちているやら、今もって詣でたいにも、詣でるべきあてどが無い。このような恨みが、年月が経つとも、忘れることが出来るだろうかと、我知らず思いに暮れた。
大尉はそうとも知らず、
「貴方も墓参はされませんか。」
伯爵;「ハイ、墓参をーーーその墓参――イヤ、後ほど致しましょう。四時か五時頃には墓地の方へ行きまして」
大尉;「では、墓地で貴方をお待ち受けいたしましょう。」
この言葉を残して大尉は別れ去った。
後に伯爵は目をしばたかせながら、雇うべき小舟は無いだろうかと見回したけれど、その目先に留まったのは、今しも息子武之助を見送り尽くして、しおしおと立ち去る露子夫人の姿である。イヤ泥埠に行くのは後にして、この夫人を住居まで尾(つ)けて行き、せめて慰めの言葉でも与えてやろうと、フト心を変え、見え隠れにその後に従い始めた。
夫人の方はそうとも知らない。足の運びは遅いけれど、垂れた頭にわき目も振らず、歩み歩んでようやく着いたのは、昔この伯爵が父と共に住んでいたあのメラン街の小さい家である。さてはこの身の言葉に従い、庭に埋めた金を掘り出し、それをもってこの後の暮らしにも当てる覚悟でいるのかと思えば、ただ不憫(ふびん)が増すのみで、しばしの間は入りかねて、控えていたけれど、何時までも控えても居られないから、ようやく思い切って歩み入ったのはおよそ十分も経ってからである。
なるたけ物音をさせないよう、夫人を驚かせないないようと、静かに戸を開き、静かに歩んで、ここが夫人の部屋かと思われる一間を覗(のぞ)くと、かすかに聞こえるのは忍び音に泣く声である。又も抜き足して中に入ると、部屋の隅に頭を垂れていた夫人は、膝の辺りに落ちる人影に驚いて顔を上げ、伯爵を一目見て、
「エ、エ、貴方が」
と叫んだ。
伯爵;「ハイ、武之助君がアフリカに立つところを余所ながら見送りまして。」
夫人は堪えかねて泣き声を放った。
「私はもうこの世にただの一人となりました。」
伯爵;「イヤ、それが気の毒なので、お詫びやら、又慰めてもやりたいと思い来たのです。ナニ、夫人、悲しむのは今までのことで、もうこれからは運が開けるばかりです。武之助君が立派な軍人となって尊敬されるようになるのも二年か三年のうちですから。」
夫人;「イヤ、そうは思いますけれど、何分にもーー」
伯爵;「何分にも今の現在がお淋しい。ごもっともです。それと言うのも総て私の所為から出た事ですので、定めし私は恨まれて居る事と思いまして、それゆえお詫びも申さなければと。」
夫人は力を込めて、
「何で貴方を恨みましょう。武之助の命を助けてくださったのも貴方では有りませんか。こうして私がここにいられるのも貴方のためです。」
伯爵;「それでも貴方がこの様な境遇になったのが、総て私の復讐から、―――イヤ私は復讐がひど過ぎたかと今では自分で疑う所もありまして。」
夫人;「イエ、そうではありません。貴方のなすった事は神の御心です。何もかも悪いのは私です。私はその昔、何故に貴方が帰るまで待っていることが出来なかったのでしょう。又先頃、貴方がパリーに現れたとき、団友太郎だと知ったのはただ私一人でしたのに、何故私はその時に貴方に謝らなかったのでしょう。
夫が天罰を受けた時、何ゆえ私はその天罰が夫よりも先に、自分に下るべきであると思わなかったのでしょう。何故私は、夫に悪事のあるのは妻の注意が足りない為だと、思わなかったのでしょう。又何故に夫の恥を、身の恥として夫と共に死ななかったのでしょう。今思えば私のしたことは、初めから終わりまで間違ったことばかり。その果てがこの様な境遇になるというのも、やはり皆天罰です。
貴方の復讐が、第一に加わるべき私に加わらなかったため、―――復讐が足りなかったためーーー天が私に思い知らせるのです。貴方の身に天の御心が添っていることは、もう誰が疑いますものか。」
とただひたすら身を責めて悲しむのは、全く天の下す応報《行いの良い悪いに応じて、それにふさわしいむくいがあること。》とも言うべきだろうか。
伯爵は慰めに来て、かえって深く悲しませるのを当惑に感じた。
第二百七十回 終わり
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