gankutu52
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2011. 2.5
下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください
更に大きくしたい時はインターネットエクスプローラーのメニューの「ページ(p)」をクリックし「拡大」をクリックしてお好みの大きさにしてお読みください。(画面設定が1024×768の時、拡大率125%が見やすい)
史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
五十二、我姿を鏡に写して
ここでもし見破られては大変である。友太郎は必死の思いで、平気の色を装い、ただ「そうですか。」と軽く答えた。果たしてこの答えが船長の疑いを解いたかどうかは分からないが、兎に角、昨夜泥埠の要塞から逃げ出した人の様子には見えない程、落ち着いていた。それに船長自身が法律を潜(くぐ)って密輸入に従事するような職業の男だから、通例の人ほどは、逃亡人を匿(かくま)ってはならないという感じが強くない。逃亡人で有ろうがあるまいが、知らない顔で雇い、知らない顔で使って、自分の用を足させればそれで好いのだ。
全くこの船は密輸入の船である。船長自身が持ち主であって、ゼノア府の人だという事も後で分かった。友太郎の身にとっては、外の船に救われたよりも、この船に救われたのが、かえって幸いしたかも知れない。余り法律の目に触れたくない人が、法律の目を避ける船に救われたのだ。
それはさて置いて、海の人が海の人に親切なのは、当然のこととは言え、実に感心すべき程である。たとえ海賊の船であっても難船の水夫を拾い上げるのに躊躇(ちゅうちょ)はしない。拾い上げれば必ず可能なだけの手当てをする。誰も彼も他日自分が救われる人になるかも知れないとの心配があるので自然とここに至るのだ。
間もなく友太郎は着物も食事も与えられた。そして体の疲れも幾らか休まった頃、試験のためだろう、船の最も大切な舵(かじ)を任された。舵につかまる体の様子で水夫の腕前は直ぐに分かる。勿論、友太郎は幼い頃から舵につかまって育った男、特にこの地中海の地理は自分の家のように良く知っている。ここで、先ず腕を見せてしばらくはこの船に隠れて居ようという気があるため、十分に働いて見せた。
それに、船長が使う地中海各地言葉は、全て良く自由に使う事が出来るので、場合により船長の代理も務まる男と皆に認められた。
船がレクホーンに着く頃である。友太郎は休み番となったので、水夫の一人に向かって「今日は何日だろう」と聞いた。
自分の身が何年何ヶ月牢に居て、今は何歳になっているのか、それを第一に知りたいのだ。梁谷法師が病気になる前は年月日も分かっていたが、その後は壁の暦も止めてしまったので、正確な見当は付かない。
聞かれた水夫は即座に「今日は二月の二十八日よ。」と答えた。実に不思議と言ってもよい。昔友太郎が森江氏の持ち船巴丸に乗って、彼のエルバの島に寄り、ナポレオンの将軍から密書を頼まれて帰って、マルセイユに入港したのと同じ日である。友太郎の心にはこの月この日が刻印のように残っている。
友太郎;「年は今何年だ。」
聞かれた水夫;「年を聞く奴があるか。千八百二十九年ではないか。」
さては土牢の中で、一日の違いも無く、満十四年を過ごしたのだ。入牢が三月の一日であった。その時は十九歳の青年で有ったが、今は三十四歳となっている。
アア、土牢の中に満十四年、どうしてその様な辛抱が出来たのだろう。今思うと身震いがする。それにしてもアノお露はどうしただろう。老いた我が父はどうなっただろう。にくい段倉や蛭峰などはどうしているだろうと、限りない思いが胸に迫る。
いよいよレグホーンへ着き、船長から雇い入れの約束と共に、給金の幾らかは前貸された。実は船長は長くこの男を雇って置きたいのである。そうして上陸を許された。
十五年目に、人間の踏む同じ土を踏むかと思うと、実に轍(わだち)の魚が海に帰った気持ちにも勝るのである。けれど嬉しさに任せて余り自分の姿を往来の人に見せては、どの様なことに成るか分からない。土地の様子は知っているから、なるべく寂しいところを通り、先ず着物一着を買い整え、次に理髪店に入って髪を刈り、髭を剃らせた。
これだけで外に用事は無いので直ぐに船に帰ろうと思ったが、それにしても、我が顔かたちがどの様に成っているだろうかと、理髪店の主人に鏡を借り、永年会わなかった親しい人に会うようなつもりで、自分の姿を鏡に写した。
第五十二回終わり
次(五十三)へ
a:1309 t:2 y:1