gankutu68
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
六十八、イエ、即金で
暮内法師と自称する客が飄然(ひょうぜん)《ぶらり》として去った後に、毛太郎次は、ダイヤモンドをいじくりまわして、しばらくはその光に酔ったようであったが、いつの間にか二階から降りて来た妻の声に驚かされた。
妻:「あんまりの事で本当とは思われないじゃないか。」
毛太郎次;「本当にそうだ。そうだけれど本当だから有り難いわ。まあこのダイヤモンドの光を見ろ。」と言って妻の目の前に輝かせた。」妻;「あんまり光過ぎるよ。私はこのようなのは見たことが無い。もしや偽ものではないだろうか。」
毛;「偽ものにこのような物があるものか。」
妻;「でも、本物ならくれる筈がないからさ。」
毛太郎次は驚いて、
「何だ、本物ならくれる筈が無いだと。フムなるほど、それもそうだ。アノ法師が友太郎に頼まれたのを着服してしまったとて誰も知るはずが無い。本物なら着服ところだなア、イヤしかし、偽物じゃない。偽物じゃない。俺の目は確かだよ。」
妻;「だって、この頃では本物よりも良く光ると言うじゃないか。」
毛太郎次の顔はたちまち曇った。
「そうかなア、もし偽なら大変だぞ。アア好いことがある。俺はこれから直ぐにこの玉をボーケアの市場に持って行って鑑定してもらうよ。」
妻;「そう、そう、早くそうおしよ。アノ市場には何時でもパリーから珠玉類の商人が来ているから。」
毛:「そうよ、幾らに引き取るか聞いて見れば分かる。」
妻;「もし、五万フランとと言ったなら直ぐ売っておしまいよ。」
毛太郎次は直ぐに支度をして市場を目指して急いで去った。妻はその後ろ影を見送った後、座に帰って、
「五万フラン大層なお金だよ。そうだ、見たことも無い大金では有るけれど、貴族のような暮らしをするには未だ足りない。なぜ十万フランではないのだろう。」
欲の袋に底がないとはこのことである。このような者にあのような宝が手に入って果たして事件無しに済むだろうか。
「玉を抱いて罪あり」とは昔からも言う事だ。
* * * * *
これから何日かの後である。マルセイユの市長の邸へ、年頃三十二、三と見られる商人風の旅人が訪ねて来た。手に手提げカバンを提げているのは商品の見本か書類でも入れているのだろうか。体の様子と言葉の訛(なまり)では英国の人らしい。
この人、市長に面会を求め、「私はイタリアのローマに本店の有る、富村銀行の書記長ですが、前から当地の森江商会とは、或る相場事件を共にして、目下十万フラン以上の貸越になって居ます。ところが近頃、森江商会に付いて種々の不評判を聞きますので、調査の為に参ったのです。」と言い、市長自身の意見を求めた。
市長は心配そうにこれに答えて、「イヤ、如何いう訳か、森江商会には近頃、不幸な事ばかり続いて、その信用を疑う人が多くなったのは事実です。私自身もアノ銀行に多少の預け金ありますけれど、何しろ当地の旧家と言い、特に頭取森江良造氏が極めて謹厳実直な人物ですから、その人を信用して、取引を続けているのです。世人の取り沙汰によると、持ち船巴丸の安否が分かるまでは、大して変ったことも無いだろうと申します。」
旅商人;「もし巴丸が入港しない時には」
市長;「巴丸に不幸な事でもあったと分かれば、森江氏を尊敬している預金者と言っても、猶予せずに取り付けましょう。そのときには、」
旅商人;「その時には支払いを停止しましょうか。」
市長;「イヤ、そこまでは断言も出来ませんが、何しろ森江氏にとっては苦境でしょう。しかし、森江商会の状態は私よりも、監獄総長に聞く方が良く分かります。総長は森江商会に二十万からの金を預けていますから。」
旅商人はこれを聞き、一礼を述べてここを去ったが、直ぐに監獄総長の邸(屋敷)に行った。そして、同じ事を言って同じように尋ねた。総長はこれを聞くと共に、ほとんど絶望の表情をして、
「イヤ、私は自分の娘の結婚資金、その他を合わせて二十万フラン預けており、来る十五日が定期の満期になるので、その日に引き出すことを前から通知してあります。ところがツイ今から一時間ほど前です。森江良造氏が自分で来て、当日までにもし、持ち船巴丸が入港すれば十万フランは当日払い、残る十万フランは来月の十五日まで満1ヶ月待ってくれと懇願して帰りました。」
旅商人;「それはほとんど支払い停止のようなものですね。」
総長;「停止ではなく、破産です。」
旅商;「ハア、破産、では貴方の債権もほとんどーーー」
総長;「ハイ、全くゼロです。実に心痛に堪えません。」
旅商;「では、その債権を私が買いましょう。」
総長の顔はたちまち輝いて、又たちまち曇り、
「非常に割り引きして、半値くらいで買うと言うのですか。」
旅商;「イイエ、富村銀行はその様な不当な事は致しません。買うならば、額面通り二十万フランに買います。」
総長は怪しまないわけには行かない。破産に瀕した森江商会の債権を額面通りに買い入れるとはほとんど、狂気の沙汰にも等しい。大金を持っていてその捨て所に困る人でない限り、しないことである。
総長;「勿論、延べ払いで」
旅商;「イイエ、即金で」
と言いながら、カバンの口を開い見せた。中に紙幣が何十万と数が知れないほど詰まっている。総長は顔に喜びの現れるのをおさえきれない。
「そうしてくだされば本当に私の一家は浮かび上がります。ですが、富村銀行はなぜその様な事をするのですか。」
旅商;「何故だか書記長の私には分かりません。それは頭取の考えに寄る事です。しかし、多分当港に森江銀行のような競争者があるのが営業上の邪魔になりますから、この機会に付け入って買い潰す計画でしょう。」
総長;「なるほど、分かりました。その計画が私どもにとっては、天の助けです。貴方への手数料は幾らでも差し上げますから。」
旅商;「イヤ、それには及びません」
総長もあの法師の恵みに会った毛太郎次の様に夢かと疑う様子である。
第六十八回終わり
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