gankutu92
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2011. 3.17
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
九十二、「初めて怪物の顔を」
「では俺が助けてやる」と、事も無げに請合うこの「伯爵」の言葉には、隠れて聞く安雄は驚かないわけには行か無い。実際にどの様にしてその様な罪人を助ける事が出来るのだろう。
伯爵は鬼小僧の問いに答え、「ナニ、今ならば助ける見込みがあるのだよ。丁度、法王の政府から、俺に莫大な寄付を勧(すす)めて居る時だから、俺が日比野の命と交換にしようと言えば、多分承諾するだろう。法王が承諾すれば、これほど確かな事は無い。」
さてはこの「伯爵」、既に法王の朝廷に対してまで少なからない勢力を持っていると見える。
鬼小僧;「分かりました。それでは、矢張り私共は短剣を隠して刑場に行き、見物人に紛(まぎ)れて待っています。そうして、いよいよ刑場に法王からの急使が来てこの罪人を放免すると言えば、私共は知らない顔で立ち去りますし、又このような急使も見えず、日比野が首切り台に引き上せられたなら、直ぐに一同で躍り出て、日比野を救います。」
伯爵;「イヤ、それには及ばない。当日の朝になれば、俺の働きかけが聞き入れられたかどうか分かるのだから。」
鬼;「貴方には分かるでしょうが、私共には」
伯爵;「イヤ、お前たちにも分かる。俺は祭礼を見るために、大通りに有るロスポリ館の表二階の三窓を借り切ってあるのだが、いよいよ働きかけが聞き届けられたなら、直ぐにその合図として、真ん中の窓の幕を赤い十字の付いたのと、掛け替えて置く。もし働きかけが聞き入れられなかったときは、三窓ともに、黄色の幕を張って置くから、それを見て事の成否を知るが良い。」
鬼;「成る程、それならば分かります。貴方のお宿の窓ですか。」
伯爵;「ナニ、俺の宿ではないよ。宿とはずっと離れたロスポリ館だよ。」
鬼;「分かりました。ロスポリ館ならば大通りの第一等の場所だから直ぐに分かります。」
安雄はますますこの伯爵の豪勢さにも驚いた。祭礼の当日に、第一等の場所を三窓まで占領するとは、よほどの金力と余ほどの勢力とで無ければ出来ないことである。
伯爵;「ではこれで分かれよう。俺は用談の済んだ後までたたずんでいる暇は無いから。」
鬼小僧;「御もっともです。ですが伯爵、この俺は如何したら好いでしょう。どの様な難題でもお命じ下さい。たとえ百里や千里離れたところからでも、貴方のお指図が来れば、直ぐに従います。もう指図を送れば指図通りに実行されたものとお思い下さって好いのです。」
伯爵は非常に真面目に、「他日必ずその方のこの言葉を試験する時が有るだろう。。その時になって驚かないようにせよ。」とほとんど命令の様に言い渡した。
これで二人は右左に分かれ去った。そうしてその足音が全く消えてしまった頃、丁度武之助が案内者に連れられてこの真近に下って来たから、安雄は共々に残る部分を見物して夜の十二時頃自分の宿に帰ったが、帰る道々もただ怪しさが忘れられないのは、伯爵の事である。
自分を歓待したモント・クリスト島のことなどから考えてみると、どうしても昔話に出てくるような神変不思議な人である。どれほどの金力と勢力とが有って、どの様な事をして居るのか、更に想像が付かない。何も詮索する必要もないけれど。何だか詮索してみたい。何だか油断が出来ない事柄の様に感じられる。
武之助の方は、帰る道々も祭礼の準備が出来ているのを見て、ただ、馬車が無いのを悔しがり、「パリーの紳士が一台の馬車も借りることが出来ないとは、後々まで人に顔向けが出来ない不面目ではないか。」と言い、ほとんど悲憤慷慨とも言うべきほどの有様である。
これがために翌日は二人早朝から手分けして、馬車の借り入れに走り回ったけれど、ついにその目的が届かない。全く車と名の付く物は全て契約済みになっていて、如何しようも無かった。午後の六時頃になって二人は不愉快に宿に帰って来たが、安雄の方は少し自分を慰めるところがあるように、「野西君、このような時には、考えたからと言ってよい知恵が出て来ないから、少しの間、劇場にでも行って、気を変えて帰って来て、そうして又相談をしようではないか。」と言った。
武之助はただ腹立たしそうに、「このような無礼な土地で、芝居を見ても仕方が無い。」
安雄;「イイヤ、僕は、馬車を借りられなかった替わりに、ジー夫人から芝居見物の案内を受けて来た。」
ジー夫人とはかってこの国からパリーへ旅行し大いに社交場に歓迎され、武之助も知り合いとなっている貴婦人である。「その案内は僕も一緒と言うのかい。」
安雄;「それは勿論さ。」ジー夫人の名に対して、武之助もようやく行く気になり、支度も怱々(そうそう)に宿を出た。
何しろ各国の人が入り込んでいる時だから、劇場の繁盛は漕ぎ分けられないほどである。この中で第一流の桟敷を占め、ジー婦人と共に芝居を見物するのは、大いに面目を施すのに足りるのだから、両人ともしばらくは不平を忘れていたが、この夜この場中にジー夫人よりも、誰よりも満場の視線を一心に引き集めた一人があった。
それは上等中の上等とも言うべき桟敷を、ただ一人で占めて、熱心に音楽に耳を傾けている一少女である。年は十六か七でもあろうか、衣服は非常に地味な色合いであるけれど、金目には積もれないほどの宝石が、手首や胸の辺に輝いて、そうしてその仕立ては、確かにギリシャの貴族または皇族の着けるのと同じものである。
皇族にもせよ、皇族でないにもせよ、このような少女がただ一人劇場に来るとは余り例のないことであるだけでなく、その容貌に、美しい上に何だか不幸の人とでも言うような、悲しそうな面影が見えるので、誰もこの少女を何者かと怪しむのを禁じえない。勿論、安雄もこれを怪しむ一人である。
彼は怪しさの余りに、ジー夫人に聞いたところ、夫人も何者か知らないけれど、毎夜この劇場に来て同じ所で同じ様に見物し、そうして十時頃には帰り去るのだとの事である。更に望遠鏡を取ってその桟敷を覗いて見ると、実は一人ではないようだ。何だかその後ろの暗い所に、保護者だか、供人だか潜んでいるように見える。供人にしても、顔ぐらいは表しそうなものなのに、その現さないのが又怪しさの一つにもなる。
このように思って、なおも見ていると、一幕の終わりとなり、その少女は帰るつもりか立ち上がった。そうすると背後に潜んでいた怪物が続いて立った。この時安雄は初めて怪物の顔を見ることが出来た。驚くべし、この人は、確かにモント・クリストの巌窟で自分を歓待した主人である。船乗り新八と自称する人である。即ち昨夜鬼小僧に礼を言われていた「伯爵」であるのだ。
第九十二終わり
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