hanaayame11
椿説 花あやめ
作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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十一 序でも故々です
人は自分の値打ちだけに見られようと思うには、何の苦労も無いが、値打ちより上に見られようとするのは、仲々骨が折れる。知らない事も知った振りをしなければ成らない。無い者も有る様に見せなければ成らない。可笑しく無いのに笑い、悲しく無いのに無くなども、又必要であろう。
草村夫人利子の方などが、即ちそれなんだ。此の夫人が初めて蔵戸子爵の手紙を受け取った時の、心の騒ぎ方は絵にも書けない程であった。繰り返して読むこと凡そ二十回にも及んだ末、漸(ようや)く手紙の意味が分かり、何う返事をすれば好いかと云う思案が附いた。
そして返事を出した後で、直ぐに娘松子を呼び、自分の身体へ充分勿体を附ける様な身振りと口調で、
『和女(そなた)は未だ、阿母(おっか)さんの親類の事を、良く知らないだろう。自分の口から云うのは、自慢の様に当たるから今まで吹聴はしなかったけれど、私の血筋は大変な門閥家から出て居ますよ。コレを御覧なさい。』
と云って子爵の手紙を差し出した。
松子は飛付く様に受け取って読むかと思いの外、手にも取らない。門閥家などと云う広大な言葉が、少しも有難くは聞こえないと見える。却って吹聴の仰山なのを賤しむ様に、母の顔をジッと見た。
此の冷淡な様子で見ると、日頃何事に付けても、母と余り意見が合わないと見える。多分は根本から気質が違って居るのだろう。夫人は、腹の底に嬉しさやら心配やら、充満(みちみち)て居る際だから、腹を立てる裕(ゆと)りが無い。唯迫き立てて、
『サア読んで御覧と云うのに。』
と言って、自分の手で更に又娘の目の前へ広げ直した。松子は仕方無しに読んでしまって、
『之が何したのです。』
夫人『何うしたと言って、名誉の高い蔵戸子爵が故々(わざわざ)阿母さんを尋ねて下さると有るでは無いか。』
松子『故々(わざわざ)では有りません。倫敦(ロンドン)へ来た序(ついで)にと書いて有ります。』
夫人『アレ分からんねえ。序(ついで)でも故々(わざわざ)では無いか。大事な親類ならばこそ。故々立ち寄って下さるのだよ。今まで阿母さんが、此んな親類の有る事を、余り口に出して云わなかったのは感心だろう。』
云わなかった訳では無く。全く先方から忘れられて居たので、云ったからと言って、何の甲斐も無かったのだ。又実際に、百年以上も交通が無くなって居て、人に云う程の親類では無いのだ。松子は何と返事して好いか分からないから、再び母の顔を見詰めた。
母御は少し失望して、
『和女は何うして此の様な時の相談相手に成らないのだろう。ソレ、今から三ケ月ほど前の新聞紙に、蔵戸家の不幸が出て居たでは無いか。』
松子『ハイ出て居ましたが、あの時は別に、親類の不幸の様に悲しみも成さらない様でした。』
夫人『独り心の中で悲しんで居ましたのさ。まあ、あの新聞を持って来てお呉れ。じっくりと読み直して見なければ。』
心の中で悲しんだけれど、今はその事柄を忘れたと見える。松子は逆らいもせずに退いたが、間も無く綴込んだタイムズを持って来て、
『ここに在ります。太郎次郎と云う二人の息子がプリンス号の沈没で、亡くなられたと。』
夫人『そうして何か相続人の事は書いて無いの。エ、誰がその息子の後へ座るとか云う様な事は、ドレその新聞をお寄越しな。』
受け取って、熱心に其所此所(そこここ)と読み直し、
『先(ま)ア、大変な不幸では無いか。一時に二人の息子を失うとは。けれど相続人の事は書いて無い。きっと血筋の上から順当に定まって居る人も有るだろけれど。』
と云い掛けて怪しそうに少し考え、
『イヤ相続人が定まって居るなら、何故子爵が此の家へ尋ねてお出でだろう。』
と呟き、少しの間、黙然として首を傾けたが、思い当たった様に、
『アア分かった。相続人を他から入れるのが厭だから、子爵が後妻(のちぞい)を娶るお積りなのだ。』
と云い、少しその顔を赤らめる様に見えたのは、確かに自分が後妻の候補者に立ったのだと思ったのであろう。
自分の綺倆が遠近に鳴り響いて居るとは、此の婦人の以前からの持論で有るのだから、噂を聞き及んで、下見分の為に来るので無ければ、その外に用事の有ろう筈が無い。
全く夫人は、一時だけれど胸を躍らせた。そうして壁に嵌(はま)って居る鏡を横目に睨(にら)んだ。
けれど此の夫人は、早や年が五十である。一時は何の様な誤解をして胸を轟かせるとも、何事に就けても総体の位置を一時に見て取るのが巧みな人だから、真逆(まさか)と直ぐに自分で打ち消して、或いは娘松子の為かも知れないとも思い直した。
そうとしても、未だ良くは納得が行かないけれど、何にしても損の行かない客と云う丈は確かである。
『ねえ松子、余ほど気を附けてお迎え申さなければ成らない事だよ。』
と考え考え云った。松子は唯だ、
『そうですか。』
と答えた。夫人はやがて思案が定まった様に、
『直ぐにゼイ夫人を呼びに遣ってお呉れ。』
ゼイ夫人とは、古い着物を新しく見せ掛けるのに妙を得た人である。約(つづ)めて云えば古着屋で、何の様な出来合をでも蓄えて居る。
自分の店に無い場合にも、咄嗟の間に調達する。松子は呆れた様に、
『阿母さん、真逆(まさか)、蔵戸子爵とやらを迎える為に、着物まで拵(こしら)えて掛かるのではないでしょうね。』
夫人『イイエ、和女(そなた)も私も、軽い喪服を着けて居なければ成りません。通例の喪服は有るけれど、それでは余り重々しく見え過ぎますから、少し色の軽いのに仕ましょうよ。何しろ、一方ならぬ御不幸で、きっと猶(ま)だ悲しみに沈んでお出でだろうから、喪服を着けて同情を表すれば、和女などの思いも寄らないほどお喜び成さる。何にも云わずに、私の言う通りに従ってお居で。』
反対を許さないほど厳重に言い渡した。
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