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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hitonotuma46

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)四十六 「波太郎」

 轢死(れきし)する人が鉄道の軌条(れいる)を枕にして、汽車の近づく音を聞いて居るのは、何の様な気持ちだろう。今、波太郎が近づいて、物を云い掛けるのを待つ伴野丈夫は、丁度その様な心持ちに違い無い。イヤ少し違う所がある。

 轢死する人は死ぬのを覚悟して居る。そうして汽車の近づくのを待ち受けるのだ。丈夫に至っては、少しも覚悟して居ない。此の様な所へ波太郎が現れ出ようとは真に意外だ。出られては実に堪(たま)らないのだ。

 けれど仕方が無い。実際波太郎は現われ出た。そうして丈夫の顔を認めて、丈夫の傍へ来、丈夫の前に立って、丈夫の名を呼んで居る。その声は全く轢死者の耳に聞こえる、汽車の声よりも更に物凄く丈夫の耳へ聞こえるのだ。

 丈夫は此世から消えてしまい度い。何と返事して好いか、何の様に自分の身を持して居て好いか、少しも思案が浮かばない。たとえ浮かんだとして、その通りにする事は出来ない。夢中と云おうか呆気に取られたと云おうか、全く丈夫その者の魂が、抜け出した様な状態である。

 一時は目も耳も惑乱して、身辺一切の物が、総て混雑して見え、混雑して聞こえるのみであったが、それでも我が前に波太郎が現れて、立って居ると云う事だけは、ハッキリと身に感じて居る。何うにかして、此の感じまで無くする事は出来ないだろうか。イヤその様な事は思う丈け無益と云う者だ。

 波太郎の方は丈夫の気も知らずに、平気で喋って居る。
 「何うも久し振りに国へ帰って来ても、誰一人歓迎して呉れる者の無いのは、余り好い心持ちで有りません。尤も帰国すると、前以て知らせてある譯で無いから、迎えに出る人の有る筈も無いのですけれど、始めて逢う知り人が貴方だとは、実に意外ですよ。貴方も此の停車場で、私を歓迎する第一の出迎え人に成ろうとは、今が今まで思いも寄らなかったでしょう。」

 昔に変わらぬ嘲弄の様な語調で云って居る。何の様な重大な事柄でも、嘲(あざけ)ってしまうのが、此の男の癖である。殆ど真面目に考える事が出来ないのだ。それだから誰からも悪人と云われて、擯斥(ひんせき)《のけ者にする事》されるのだ。

 彼は更に、
 「お出迎え下さったからは、握手ぐらいは許しても好いでしょう。」
と云いつつ丈夫の手をまで握った。
 実際丈夫を出迎人と思って居る譯では無くとも、帰国して初めて逢った知り人だけに、幾等か懐かしくは思うのかも知れない。

 丈夫の手は握ったけれど、丈夫の少しも関心の無い様子に、少し怪しみの念を起こしたと見え、
 「オヤ、貴方は好く帰ったとも、何とも仰(おっしゃ)りませんね。アア余り意外なので、私を幽霊とでもお思いですか。成るほどそれも無理は有りません。旨く死んだ様に見せ掛けて、借金取りなどを悉(ことごと)く欺いて置いたのですから。」

 アア此の悪人奴、自分の義務を逃れる為に、死んだと見せ掛けたに過ぎなかったのか。旨く欺いて置いたなどと、自慢の様に云うのは、何と云う心だろう。
 「けれどナニ、貴方には借金が無いから構いませんねえ。丈夫さん、幽霊に此の様な堅い手は有りませんよ。ソレね。」
と云って更に丈夫の手を握り〆た。

 丈夫はまだ言葉が出ない。けれど波太郎の方は、益々平気で、
 「幽霊と思われても、実は仕方が有りませんのさ。数年の間、幽霊と同じ様に、イヤ死人の数に入った積りで、幽霊の真似の様な事をして居たのですから。

 しかし丈夫さん、死んだと見せ掛け、その実生きて居て、名も変え、姿も替え、知った人に知られない様にして世を送るのは、余り心持の好い者では有りませんよ。貴方などは決してしない事です。

 初めは乞食の様な真似をして居ましたが、何うやらこうやら本物の乞食に成って、果ては乞食で無い真似が、容易に出来なく成りますよ。イヤ全く懲りました。懲りたから此の通り生きた人間に立帰り、再び父の脛(すね)でも齧(かじ)ろうかと思って、帰ってきたのですが、父ももう愛想を尽かした後ですから、余り構っては呉れないかも知れません。

 その時はナニ父の財布でも攫(さら)って、又高飛びと出かけますワ。何でも父の財布に限ります。父の財布なら攫って逃げた所で、後から探偵吏が追って来ませんから。」

 丈夫は漸くに声が出た。
 「貴方は真実死にもしないのに、死んだ様に見せ掛けて、自分の妻などまで欺いて居たのですか。」
 妻と云う一語に波太郎は異様に目を開いた。
 「エ、妻をまで、私が妻を持ったと云う事を、貴女は何して御存じです。」
と云って丈夫の顔をじっと見たけれど、丈夫は二の語が出ない。

 やがて波太郎は合点の行った様に、
 「アア分かった、私しが死んだ者だから、槙子は私の父に縋(すが)り附いてでも来たのですね。私が散々父の事を吹き立てて置いた者だから、波太郎の未亡人とか何とか書いて、父の許へ手紙でも寄越して。」
と云い掛けて又忽(たちま)ち驚きの色を深くし、

 「事に寄ると私の父に引き取られ、此の国へ来て居るのでは有りますまいか。私の死ぬ頃、子を孕んで居ましたが、その児を捨てるか何うかして、アアそうだ、此の国へ来て居るので、私の父がアノ通り慈悲深い人だから、息子の妻を、飢え死にさせる譯には行かないとか、何とか義理難い事を云って、オヤオヤ之は実に大変だ。

 女房の方が、先に親爺の脛を齧りに来て居るとは、思わなかった。それではアノ槙子め、私しの悪い事を残らず父に話したには違い無い。余っぽど旨く父を騙す積りで、言種(いいぐさ)、仕種(しぐさ)も考えて来たのに、女房の方が先に廻って素っ破抜いて有るのでは、何の様な狂言も旨く行かない。」
と殆ど失望の様子で頭を掻くのは、何たる勝手気ままでだらしの無い男だろう。



次(本篇)四十七

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