hitonotuma5
人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)
バアサ・エム・クレイ女史 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。
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人の妻 バアサ・エム・クレイ女史 作 黒岩涙香 訳
(本篇)五 「抑(そ)も何の悪事だろう」
人は見掛けに寄らぬ者とは云え、此の美しい、そうして清らかな槙子に悪事の有ろう筈は無い。自分で悪事をしたと云うのは何の様な事柄だろう。
昔或る貴族の嬢様が、自分で酷い悪事を働いたと云い、宛(あたか)もその罪を恐れる様に鬱(ふさ)ぎ込んで居るので、抑(そもそ)も何の悪事だろうと親御が篤(とく)と糺(ただ)して見た所ろ、誤って人形の手を折ったので有ったと云う話が有る。
槙子の悪事も、聞いて見れば、此の様な類かも知れないと、丈夫は自分の心中に此の様な例まで引いて、成る丈け軽い事の様に思い做(な)した。
「何の様な悪事だか知りませんが、貴女が言いさえしなければ、誰も見出す事は出来ませんよ。」
と慰めた。
槙子「でも博士の家へ行って、皆さんが親切にして下されば、私は云わずに居る事は出来ません。」
槙子が博士の事を、手紙には父上と書いたけれど、口では唯だ博士とのみ云って、父とは云わないのは感心であると丈夫は是をも感心の種に加えたが、何うも悪事と云う一条が気に掛かる。
掛け舞いと思っても自然と掛る。取り分け自分よりも槙子の方が甚(ひど)く気に掛けて居るので、話を他の事柄に転ずるのが好いと思い、
「朝に為って気の晴れた時に考え直せば、ナニ太した悪事では無いと思う事になりますよ。サア最っと暖炉の傍へお寄り成さい。豪州のお話を伺いましょう。」
槙子は命令に従う様に、少し許り椅子を暖炉の方へ寄せる様な真似をした。そうして
「イヤ豪州の話は今夜は出来ませんよ。思い出しても気持ちが悪くなります。」
此の一語で、槙子が如何ほどの苦しい境遇に立って居たかが分かる。
丈夫「御尤もです。それでは私の方で博士の家のお話やプルード総体の事柄をお聞かせ申しましょう。」
こう云って丈夫は博士の家族の有様や家風などを、成る丈退屈しない様に説(と)き聞かせ、それとは無く槙子の心得て置くべき事などもその間へ挿んで述べた。槙子の方も段々に打ち寛ぎ、多少は話らしい事をも述べたが、初めから終わりまで自分の夫波太郎の事は一語も云わない。
全体ならば、丈夫に波太郎と何の様な知り合いで有ったかを問い、それを糸口に外の話を引き出し相な者である。けれど丈夫の方でも、少しも波太郎の事を聞き度くは無い。一応悔やみの様な事を述べるのが相当だろうかと、丈夫は少し考えたけれど、此方も何だか波太郎の事は言い出し度くは無い。思い出す丈でさえ好い心地はしない。
やがて夜の九時半とは為った。是から上の長居は、幾等親切の為にもせよ、相当で無い。丈夫は分かれを告げようとして立ち上がり、明朝十一時頃又自ら迎えに来て一緒にプルードまで連れて行って遣るとの意を告げた。槙子が益々深く丈夫の親切に感ずるのは無論である。
立ち上がったけれど丈夫は、まだ先ほどの彼の「悪事」が何だか気に掛かり、一言槙子を誡めて置き度くて成らない。云おうか言うまいかと、少しモジモジしたけれど、全く槙子の為だと思い、遂に思い切って、
「アノーーー、貴女へ一寸お誡(いまし)め申して置き度い事が有ります。」
と言い出した。
槙子は何か自分が大した落ち度でも仕出かしたのだろうかと思った様子でパッと顔を赤くした。そうして、
「ハイ、お気の付いた事は何うかご遠慮なく仰(おっしゃ)って、イエ私は未だ此の国の事は何にも知りませず、きっとお目に余る事ばかりだろうと思いますが。」
丈夫「イヤその様な事柄では有りません。先刻お話のアノ悪事と云う事ですが、是から後は誰にも仰らない様に成さい。そうして人が見現わすならば見現わすに任せて置き成さい。貴女の口から悪事などと言い出すと、人はその意味を悟らずに、非常な事の様に疑い、貴女を悪事(あしざま)に思いますから、ねえ、分かりましたでしょう。」
槙子「ハイ分かりましたけれどーーー。」
丈夫「それではもう、悪事と云う事は此の席限り消えて了った者として、少しも気の咎める様な事は有りませんから。」
槙子は少し恨めしそうである。
「でも貴方は、その悪事の何と云う事をお知り成さらずに。」
丈夫「イヤ知るに及びません。大抵は合点が行って居ますから。」
槙子は益々顔を赤め、
「でも大津家の皆様が親切にして下されば、私は云わずには居られません。親切な人を欺(だま)されましょうか。」
丈夫「イヤそれでは、愈々云わなければ成らないとお思いの時には、一応私に沙汰して下さい。そうして、云うなら曖昧に云わずに、極明白に事の本末を残らずお打ち明け成さい。唯だ済まないとか悪事が有るとか少しばかり口を切るのは、必ず害になりますから。エ、是だけの約束なら出来ましょう。
槙子は止むを得ないと云うように、
「ハイそれだけならお約束致します。」
兎に角も一時槙子の口を噤(とじ)させたのは、当然我が身の為(せ)ねば成らない親切であると、丈夫はこの様に思い詰めた。けれど此の親切が、人の身我が身に何の様な影響を及ぼすかは知る事が出来なかった。
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