巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hitonotuma54

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

since 2021.5. 4


下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
   
    (本篇)五十四 「寸前暗黒な分かれ」

 母御は身を取紊(みだ)して驚いたが、丈夫の方は物凄いほど静かである。顔の一筋をさえ動かさない。
 静かな人の心の苦痛は、取紊(みだ)した人よりも深いだろうと、母御はやがてこう感じた。実に流石は母御である。自分が此の様に驚き悲しむべき場合では無い。息子の心を慰めて遣(や)らなければならない。元気づけて遣らなければならないと、少しの間に気を取り直して、

 「何うして先ア波太郎が生きて居たか、詳しく私に聞かせてお呉れ。」
 丈夫は言葉の調子まで、矢張り物凄いほど静かである。殆ど他人の事を話す様に落ち着いて話し出した。そうして一旦彼れの咽喉を縊(し)めて、死人同様の有様に至らせた事まで残らず話した。話し終わって彼は叫んだ。

 「アア阿母(おっか)さん、私は波太郎を殺した事を、一度は後悔して、彼の蘇生したのを見て、まア好かったと安心しましたけれど、今思うと矢張り彼を殺す外は無いのです。何故その蘇生して来た時に、再び殺し直さなかったんでしょう。」

 真に恨めしさに耐えられない様子である。
聞き終わって見ると母御も、何と丈夫を慰めて好いやら分からない。慰める言葉の有る様な事柄では無いのだ。暫(しばら)くは胸に湧き起こる悲しさを、堰き止めかねて居たが、漸(ようや)くに声を整えて、

 「その様に金まで遣って、波太郎を米国(アメリカ)へ追い遣ったとすれば、ーーー其方はまさかーーー今までと同じ様に、イヤ波太郎と云う者が此の世に無いと同じ様に、何事も知らない顔で済ます積りでは無いだろうね。」

 丈夫「何で今までと同じ様に、何事も知らない積りで、暮らして行く事が出来ましょう。波太郎を追い遣ったのは、自分の為では無く、槙子の為です。私の方はもう、勿論槙子の夫では有りませんが、それにしても槙子へ此の事を知らせるのは、如何にも可哀相です。波太郎が生きて居て、自分が私の妻では無かったと知れば、槙子は必ず死んでしまいます。ーーー。」

 母御「そうサ、あの美しい気質では」
 丈夫「ですから槙子には、何にも悟らせずに、今のまま私の妻だと思わせて、そのままソッとして置いて、私だけ立ち去る積りです。」

 母御が若し愚痴な女なら、泣きもしよう。悲しみもしよう。容易には丈夫の此の決心を、呑み込む事が出来ない所で有るだろうけれど、男優りとも云われた程の方だけに、全くそれより外に仕方が無いと見て取った。
 「兎も角、ここ一時の所はその様にでもして置かなければ成らないかねえ。」

 丈夫「イイエ、一時では無く永久です。私は色々と先刻から考えましたが、そうするには、印度へ行くのが一番宜(よろ)しいと思います。ハイ弟次男の許へ私は行きますから、槙子へは成るたけ怪しまれない様に、言い聞かせてーーー。」
とまで云い掛けたが、彼はここに至って、俄然として、殆ど今まで耐(こら)え耐(こら)えた悲しさが、一時に胸を破ったと云う様に泣き声を発した。

 アア彼れが今まで物凄いほど静かで有ったのは、何う此の場合を処置すれば好いかと、唯だ考えてばかり居たのだ。思案に追われて、悲しむ暇も無かったのだ。今は愈々(いよいよ)夫婦分かれ、是れをこうして彼(ああ)してと一切の思案が定まったので、心に少しの裕(ゆと)りが出来、悲しさが先に立つ事と為った。

 夫婦分かれと云えば、言葉だけでも悲しいのに、況(ま)して丈夫と槙子の様な、多年不幸不幸の中に居て、初めて人生の楽しみが廻り来たと云う此の際に、生涯の分かれをするとは、実に悲惨の極みである。

 丈夫は一旦泣いて、神経を弛(ゆる)めなければ、男ながらも迚(とて)も耐える事が出来ない。彼は暫(しば)しが程、全く声を放って泣いた。そうして、自分さえ是ほど悲しいことなので、益々槙子に何事をも悟らせてはならないと決した。

 丈夫が泣いて居る間、母御は唯だその背を撫でて泣かせて置いた。親身の母の前ならばこそ、こう泣けるので心が休まる。漸(ようや)くにして泣き声のおさまった頃、母御は穏やかに、

 「其方の思案を良く聞かせてお呉れ。出来る丈け私が手伝って上げるから。」
 丈夫は涙を乾かせて、
 「私は今夜ここから直ぐに立って、大陸へ行き、汽車で地中海の何所かから、インド行きの船に乗ります。きっと槙子が怪しみましょうから、次男が病気に成ったと、こう言い聞かせる事に致しましょう。ハイ次男を病気と言うより外に、怪しまれない様な口実は有りません。」

 母御「それはそれで良いと決めて、ここから直ぐに立つと云っても、一度は我が家へ立ち寄ってーーー。」
 皆までは言わせない。
 「イイエ阿母さん、我が家へ寄って槙子に暇を告げるなどと、その様な事は出来ません。寄れば何れほど別れが辛いかも知れず、悟られずには済まないと思います。それに又、我が家と云っても、もう我が家では無く、私は槙子へ暇さえ告げる権利の無い人です。」

 何も彼も呑み込んだ母御でも、少し驚かない譯には行かない。
 「暇をさへ告げずにとは、大変なーーー」
 丈夫「イヤ、大変でも是より外は無いのです。既にその積りで、帰らないと云う電報を打って置きました。」

 母御は唯だ歎(なげ)くのみである。
 「何も彼も、もう仕方が無い。アア不幸な事だ。」
 我知らず此の愚痴が出た。

 丈夫「私が槙子へ宛て、今ここで手紙を書きますから、何うか貴女は今夜の中にそれを持って、我が家へお帰り下さい。イヤ槙子の許へお出で下さい。手紙には、成る丈け槙子が道理(もっとも)と思う様に、余り驚かせると恐れるから、暇も告げずに立つのだと書いて置きますから、後は何か阿母さんのお考えで。」

 母御「分かりました。分かりましたが、そうして其方は何時まで印度に居る積りで。」
 丈夫「明らかには分かりませんが、当分は帰りません。槙子の許へは生涯帰りません。けれど槙子には、何所までも悟らせない様に、私は手紙なども月々寄越し、今まで通りの間柄だと思わせて置くのです。幾年か経つ中には波太郎か私かが病死しましょう。何方(どちら)でも一方が亡くなれば事は済みます。」

 此の言葉で見ると、或いは自殺する積りでではないだろうか。母御はそうとも問い兼ねて、
 「後は何とでも、私の力の及ぶ限り、良い様に計らうから、其方は決して短気な心などを起こしてはいけませんよ。」

 丈夫「その様な御心配は有りません。何分宜しくお願いします。」
 母御「幾等悟らせない様にしても、其方が何時までも帰らなければ、そのうちには悟る時も来るだろうがーーーー。」

 丈夫「同じ悟るにしても、成る丈け当人の辛くない様に良く慰めてお遣り下さい。」
何所迄も実意は行き届いて居る。
 母御「それは慰めも傷(いた)わりも仕ますとも。先ア後の事は成る丈け心配せずに、其方も身を大切にしてお呉れ。」
唯一語にも千萬無量の慈母の愛が籠って居る。

 間も無く丈夫は紙筆を借りて、ここで槙子への手紙を認め、それを母御へ渡して、母御は伴野荘を指し、丈夫は印度へ向けて大陸を差し、分かれ別れに大津博士の家から立った。実に気の沈んだ、云わば寸前暗黒な分かれであった。



次(本篇)五十五

a:25 t:1 y:0

hitonotuma54

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花