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hitonotuma68

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)六十八 「終には容易ならぬ事に」

 丈夫からの手紙は前の通りであるが、医者から来た手紙には、次男の方へ宛てて、丈夫の病気の容体を知らせた者で、何分にも当人が気が沈んで居て、それが為に気力が益々衰えるばかりだから、急にこうと云う事は無いけれど、今の中に心を引き立てさせる工夫をしなければ、終には容易ならない事に立ち到ると書いてある。

 医者が故々(わざわざ)知らせて来る程だから、「急に何うこうと云う事は無い」と有っても、余ほど気遣わしい所が有るに違い無い。次男も勿論心配したが、取り分け母御の方は全く途方に呉れた様子で、

 「なあ、次男、気を引き立てる工夫と言って、槙子の事が此のままで続けば、益々気が沈む許りだろうし、何とか好い工夫は無いだろうか。」
 次男「実に困りましたねえ。兄さんは、槙子の事が今のままでは、気の沈むのは勿論ですが、たとえ離縁の手続きが済んで、綺麗に他人と為ってしまい、少しの煩いも残らない事に成ったとしても、心が引き立ちはしないのです。」

 母御「そうだねえ。」
 次男「アノ様に槙子を愛して居なさるのですもの。愈々(いよいよ)槙子が他人と為れば、全世界を失った様に、力をお落とし成さるでしょう。それも私等の様に、口に出して泣いたり笑ったりする気質なら未だしもですが、独りで黙って耐(こら)えて居る御気質ですから、猶更(なおさ)ら心が沈むのです。」

 母御「誰かを印度へ送って遣ればと思うが、その様な人は無いし。」
 次男「それにねえ、兄さんは波太郎の咽喉を縊(し)めた事をまで、抑々(くよくよ)云って居るのです。何の様な事情が有ったにせよ、又一時の腹立ちにもせよ、此の丈夫が人を殺す気に成ったのは、済まない譯だなどと仰るのです。

 アノ様な事情に逢えば。誰だってアレ位の事はするじゃ有りませんか。それに真実、波太郎が死んだと云う譯では無し。私などなら好い気味だったと思う所ですのに、兄さんは、ナニ波太郎が生き返ったと言っても、人を殺そうと云う決心を起こした俺の罪に、軽重は無いなどと云って居ます。」

 母御「何うしたら好いだろう。私は自分で印度へ行き度くなった。」 
 次男「ナニ、阿母(おっか)さん、貴女の御老体で印度まで行かれます者か。そう御心配を成さるな。私が兄さんへも又懇意な者へも手紙を出して、出来る丈の工夫は運びます。そうして又その中には私も帰りますから、何とかして兄さんを、貴女の許へ帰す事に致します。」

 漸(ようや)く次男は母を慰め、それぞれ手紙を出しなどした。
  *    *    *    *    *    *    *
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 それはさて置き、次男が印度へ帰るのは、目的通り妻を娶った上で無ければ成らない。彼の女医師との縁談は、何の様に運びつつあるのだろう。
 詳しくは記すに及ばない。その後、次男は道子の家で幾度も鈴子に逢った。素より心で許し合った仲で有るのだから、診察所で逢った時とは違い、互いに事の外打ち解けて居る。

 それに診察所で有った一条も、冗談の種に成って、二人の間を打ち解けさせるのみである。鈴子は次男を、「意地が悪い」と云えば、次男は鈴子に「診察費を返して下さい。」などと云い、寄ると障(さわ)ると互いに戯(ざ)れ合って居る。

 此の様な仲で縁談の成り立たない筈は無い。その中にも印度に女医者が必要だと云う真面目な話が、取り分けその職業に熱心な鈴子の心を動かした様で、次男が二月ほど逗留する中に、愈々(いよいよ)鈴子は次男の妻に成って共々に印度へ行くと云う事に決まった。

 こうなると色々用意も有る。間も無く鈴子は今まで開業して居た場所を、得意先ぐるみに新開業の医者に売り、自分は印度へ出発するまで、元の通り道子の家に居ると云う事に成った。勿論婚礼の場所へも、ここから行くのだ。

 姉輪子も時々此の家に来る。輪子は風間夫人の許に居るのだけれど、日々殆ど決まった様に風間夫人と喧嘩をして、その度にここへ来る。併し今以て昔の癖が抜けない所が有って、人が何か秘密らしい話でも仕そうに見えると、直ぐに次の間へ忍び込み、押し入れへ潜り込んだり、暖炉(ストーブ)へ顔を突込(つっこ)んだりして立ち聞きする。

 そうしてその聞いた事を、帰って行って風間夫人に話す。夫人は自分で直接に交際場へ出て、最新の噂話を聞くなどと云う事は出来ないから、之を一つの通信機関の様に思い、自分よりも更に交際の狭い人に向かっては、自分が直接に見聞した事の様に仄めかして話立てる。 この様な人は随分有る。

 或る夕の事、道子と鈴子とが一間の中で、何やら密々(ひそひそ)と話して居るので、輪子は慌ててその次の間に入り、例の通り、空いたストーブの前へ腹ばいになった。立ち聞きでは無い、寝聞きなのだ。そうして聞いて居ると両女は丈夫と槙子との不和の経緯を話して居る。

 輪子に取っては又と得難い好問題である。前から輪子も風間夫人も、何故に丈夫と槙子との間が破れたのか、不審の思いに我慢が出来ない為め、幾度も自分、自分の推量を持ち出して、彼(あ)れか此れかと、自分達の身に降り掛かった事柄か何んぞの様に評議《集まり相談すること》したけれど、今まで満足な解釈が出来ずに居たのだ。

 聞くうちに鈴子の声で、
 「私もこの間初めて次男さんに聞いて、漸(やっ)と合点が行きましたよ。兄さんが未だ生きて居ますってねえ。」
 道子「そうさ。波太郎が帰って来て、丁度アノ停車場で丈夫さんに逢った者だから。」

 鈴子「成るほど、それでは丈夫さんの成され方は、無理も有りませんねえ。」
と言って、是から詳しく事情の説明や批評などに話が渡った。輪子は思う存分に聞いてしまった。

 輪子に取っては実に鬼の首を得た程である。彼(か)の女は翌朝、早速風間夫人の許へ飛んで帰った。もう喧嘩した事も忘れ、再び貴女には顔を合わせませんなどと云って、その家を出た事も忘れて、

 「夫人、夫人、貴女の喜ぶ大変な事を聞いて来ましたよ。」
と云うのが最初の言葉であった。此の二人の間で、此の秘密を何の様にするだろう。少しでも人に禍を及ぼす機会さえあれば、及ぼさずには置かない程の毒口を持った同士だから、唯は済ます筈が無い。



次(本篇)六十九


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