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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hitonotumajyo9

人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

since 2021.3.10


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   人の妻  バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳

         
    (序篇)九 「大変な智慧者」

 間も無く丈夫(じょうぶ)はロシアへ立った。後で輪子の立腹と絶望とは凄まじかった。彼女は丈夫が自分へ縁談を申し込まずに行ってしまったのを、宛(あたか)も自分の亭主をでも盗んで行ったかの様に心得て居る。

 此様な時に輪子の相談相手は唯だ一人ある。それは、矢張り輪子の遠い叔母に当たる人で、風間未亡人と云い、余り裕福で無く、ロンドンに住んで居る大変な智慧者だ。此の夫人は先年大津博士の細君が死んだ時に、是非ともその後釜に直り度いと云う野心で、博士の許へ、長い長いお悔やみ状を送り、

 「きっと子供の始末や家事の取り締まりにお困りだろうから、私が行って、子供等に母の代わりを勤めましょう。」
と言い込んだ。博士は大層喜んで殆ど用意し掛けたが、その頃は未だ輪子の姉の道子と云うのが家に居て、此の夫人の野心を見て取り、父を諫めて断然拒絶させてしまった。

 波太郎も鈴子も一川二山両夫人も、皆此の道子の云う事に賛成したが、独り輪子のみは夫人の野心を見る事が出来ず、余計な「お節介」に細々の手紙を認め、姉や多勢の者等が父を諫めた次第を夫人の許へ書き送った。総て輪子のする事は此の様な行き方だ。自分独りが好い子になろうと詰まらぬ所へ親切を売りに行く。

 流石智慧者だけに、風間夫人は、此の一家で輪子だけが薄馬鹿だと既に見て取った。何でも馬鹿から取入るに如くは無しと、次に切て輪子だけでも世話し度いと博士に言い込み、是だけは承諾を得て、一年ほどの間輪子をロンドンの自分の家へ引き取って居た。

 その間に常に輪子に向かって云う事が面白いテ。此の夫人は所夫の死んだ時以来博士から恩給の様な年金を受取っているのだが、
 「こう阿父さんに費用を掛けては済まぬから何うか恩給を受けぬ様にしたい。」
と云うのだ。

 成るほど恩給を受けるよりは後妻になって財産を横領するが好いには違い無い。
 輪子は此の夫人より外に相談する人は無いと思い、今度も亦細々の手紙を認め、自分の腹立ちや絶望を、有りの儘に並べ、何うか逗留に来て呉れと言い送った。是こそ夫人が、願ふても又と得られぬ好機会である。今度こそは、何うでも斯うでも恩給を受けぬ身になって了はねば成らぬと、非常な決心を以て直ぐに遣って来た。輪子は此の夫人を停車場に出迎えたが、汽車から降りて此の夫人の最初の言葉は、

 「先ア本当に今度は酷(ひど)い目に逢いましねえ。是と云うのも貴女の阿母(おっか)さんが無いからですよ。母同様の人が傍に居れば何の様にもして丈夫さんとやらを抑(おさ)い留める所だのに。」
と云うので有った。

 輪子「今ではもう遅いでしょうか。」
 夫人「今だって私が母同様の地位に立てば、何も遅い事は有りません。色々細工は有りますから。」
 輪子は震い附く様に、
 「何うかその細工を教えて下さい。」

 夫人「先あじっくりと事情を聞いた上で無ければ分かりませんが。丈夫とやらは居無くっても、その阿母(おっか)さんは居るでしょう。阿母さんの方へ時々尋ねて行って、親切を尽くすのが第一ですよ。」
 輪子「伯母さんそれはいけません。阿母さんと云うのは何だか私を憎んで居ます。今度の事も阿母さんが水を差したに違い無いのです。」

 やがて停車場を出て馬車に乗ったが、暫く行くと向こうから女を連れた一紳士が、非常に親しそうにその女と何事をか話し話し歩んで来た。夫人は早くも之に目を附け、
 「オヤ彼は博士では有りませんか。」
 輪子「ハイ、阿父(おとっ)さんですよ。」

 夫人は眼を光らせて、
 「シタガ連れの女は。」
 輪子「彼(あ)れは丈夫さんの阿母さんの従妹だとか云う事で、伴野夫人の許に厄介になって居る内山夫人とか云う方です。」
 夫人は大いに不安の様子である。

 「阿父さんがその方と親しくして居るのですか。」
 輪子「ツイ此の頃の事ですが、時々伴野夫人の許へ行くと云っては出掛けますよ。」
 近づくに従って良く見ると、内山夫人と云うのは自分よりも若くて、多少の美しさが残って居る。風間夫人は空き巣狙いにでも逢った様な驚き方である。油断はならないと云う風で、直ぐに馬車から飛び降りて、博士の傍へ走って行き、博士の出さぬ手を無理に握って、此の度お招き受けて有難いとの礼を非常に大げさに述べた。

 一つは内山夫人へ、此の博士を目掛けたとしても、先約が有るから無益だとの意を悟らせる掛け引きでも有ろう。博士は自分で招待した覚えは無いけれど、例の燥々(いらいら)したした風で、
 「爾(そう)、爾、爾、爾」
と云い、更に、
 「ですが貴方は何所へお出でなさるのです。」
と聞かれて、

 「内山夫人と、町まで買い物に行くのだよ。爾(そう)、爾、爾、爾」
 風間夫人が何を云っても相手にせずに去ってしまった。



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