nyoyasha48
如夜叉(にょやしゃ)
ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2012. 5.24
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如夜叉 涙香小史 訳
第四十八回
松子夫人は二階へと上り去り、今はその足音も絹服の音と共に聞こえなくなった。耳を澄まして聞いていた老人は発狂したか気が抜けたかはたまた自分の心を失ったか、
「アア」と一声凝らしていた息を漏らしてつと立ち上がり三足四足階段の方によろめいて行く。長々は危ないと直ちにその肩を取り留めて、
「貴方は何をなさる。」
と問うと老人は初めて我に返り、
「オオそうだった。貴様がまだ傍にいたか。俺は夫人の足音に聞きほれて貴様がいるのを忘れていた。」
と言い又深い息を吐く。その様子は実に異様で夢遊病者が夢の中を徘徊するのと異ならない。
(長)「貴方は好く心を落ち着けなければどの様な間違いをするか分りません。」
(老)「イヤ、心配するな。落ち着いている。落ち着いている。サア貴様は早く行って仕舞え。」
(長)「行って仕舞えとはお皺婆を迎えに行くのですか。」
(老)「アアそうだ。お皺婆を迎えに行くのだ。婆と突き合わせて俺が夫人に詰問する。」
(長)「婆と突き合わせたところでアノ様な夫人ですから大胆に知らないと言い張り立腹の体に見せてこの様な所に居るのは汚らわしいと言い立ち去ってしまいますよ。」
(老)「ナニ、立ち去ろうとしても立ち去らせない。サア行け、行かぬか、」
(長)「行けと仰るなら行きますが。」
(老)「行け、早く」
(長)「でもアノ『松あ坊』を巡査にでも引き渡しますか。」
(老)「ウム、引き渡す。」
(長)「この家で『松あ坊』が捕縛されたと言えば貴方はもとより亀子さんの名前にかかわり、世間の噂になりますが、何故捕縛させるのです。」
(老)「何処ででも捕縛させる。早く行け。サ早く。」
と只管(ひたすら)に追い立てる。その様子は全く日頃の三峯老人ではない。
何処となく安心し難い所があるので長々は心の中で。
「アア師匠は全く気が狂ってしまった。傍に俺がいてやらないとどの様な事をしでかすか分らない。」
とまだ呟き終わらないうち老人は心の怒りを制することが出来ず大喝一声に、
「俺の言い付けに背くのか。早くあ皺婆を呼びに行け。」
と叱り付ける。
長々は止むを得ず、
「イイエ、これから行きますが私が婆を連れて帰るまで『松あ坊』が居るか居ないか分かりませんよ。貴方には見えないでしょうが今『松あ坊』が二階に登ったのは、様子で見れば充分疑いを起こしていますから。、私の留守の間に逃げてしまうかも知れません。」
(老)「逃がしては大変だ。この部屋の出口と玄関に鍵を下ろしその鍵を持って行け。鍵がなければ逃げるにも逃げられない。」
(長)「よろしい。では直ぐに行って来ますが、先ず貴方を椅子の所まで連れて行って上げましょう。」
(老)「それには及ばない。俺はこの通り杖があるから案内を知った細工場では一人でも不自由はしない。サア行け。」
と又追い立てられ、今は長々も猶予していられない。特に一分一秒の手遅れが大事を誤るかも知れないので、
「好し、好し、お皺婆に突合せ松子の面の皮を引き剥いた上で茶谷立夫に関係のあることまで俺が白状させて呉れる。」
と腹の中に思案を決めそのままここを立ち出でて先ず間仕切りの戸に錠を下し、次には其の外の逃げ道と思われるところを悉(ことごと)く閉ざして置き、自分は一散に走った。老人は立ったままで長々が下す錠の音を聞き尽くし、その走って行った足音まで確かめた上でグっと身を引き伸ばして見えない目を張り開きながら、
「サア大復讐の時が来たぞ、彼の悪女を殺してやる。エエ殺さずに置くものか。」
と言って歯をギリギリと噛み鳴らしたがやがてそろそろと壁に寄り探り探りシテ今しがた松子夫人の上って行った階段の下に立っていた。
「ここだ、ここより外に降りて来る所はないと言いながらその杖の一端を取り、力を極めて引き抜くと中から出た一物は夏なお寒い九寸五分である。昔スペインの婦人が肌身離さず持っていた懐剣もこれには勝っていないだろう。」
鍛えに鍛えた切れ味はこれ老人が我が仇を殺す時の用意にと目が潰れて以来隠し持っている品なのだ。この九寸五分を悪女『松あ坊』の生き血に染めるのも今一時間の中にあるだろう。
そもそも彫刻の術と言うのは最も清く最も高く、又最も古い美術にしてその昔ギリシャ人から伝わり、今もなお汚れた人の手に落ちていない。その故にこれを事とする者は常に昔の英雄を手本とし君子聖賢を座右に置き、親しくその言行を追想しその風采を胸に描くため心自ずから高くなり、たとえ沐浴斎戒しなくても一切の邪念から遠ざかるためだろう。
特に三峯老人の如きは俗塵深いパリー市内に育ち都会人の気風に染まっているとは言え、今なお朴訥な一野人である。心があくまでも剛毅であるだけでなく身の作りも又頑丈で一度鑿を手にして大理石に臨む時は怒りたる石工も及ばないほどに力を極め、難きを見て難しとせず、一心不乱に業を励む。良く人を愛し又良く人に親しんでいるが、所謂善悪共に強いもので、一旦その人が我に偽るのを悟ったなら寸も貸さず厘も許さず我が身を砕いても又その人を砕こうとする。
彼まだ茶谷立夫が偽りなのを知ってはいないが、既に松子夫人の偽りなのを会得したので、その怒りの非常に強いのも怪しむには足りないというべきだ。彼が怒った心の裏、血走った眼の表、今は亀子も無し、我が身もなし、一念唯復讐に凝り固まり、人を殺したら我が身が罪人として法廷に引かれるのにも気が付かず、我が捕らわれた後に娘亀子がどれ程嘆くことかと言う事をも顧みず、只管(ひたすら)に松子を刺し殺そうと思っている。
長々を出してやったのも又この為だったのだ。松子に亀子を連れずに唯一人で降りて来るように言ったのもこの為なのだ。アア彼がその身を誤る刻限は次第、次第に近くなった。彼宛(あたか)も昔の復讐者ネミセスの石像のように階段の下に立ち、動きもせずにただ階段の物音を覗うばかり。九寸五分の匕首は隠して背後に回した彼の手先に固く握っている。
彼が一生の運命は唯この一転瞬の間にあり。若し出て行った長々生にして露ほどでもこの有様を知ったなら直ちに立ち帰ってこの匕首を奪い取るべきなのに彼が知らなかったのは何とも仕方が無い。 こうして老人は打ち聞くこと二、三十分にも及んだ。この時の静かなことと言ったら例えるものもない。その間に日も次第に暮れ掛り、寂莫たる細工場は陰気な中にも一層の陰気を添えていた。鬼気人に染まるとはこの様な場合を言うのだろう。
しかし老人の心に燃える恨みはその待ち遠しさの増すのに従がい、益々募り今は顔色さえ血の気を失った。この時初めて老人の耳に入ったのは梯子段の物音だった。サワサワと摺(す)れる絹服は間違いもない。先ほど登って行った松子夫人の服の音である。老人は又身を引き延ばし、
「サア、松子だ。この悪女め。天罰を受けに来たな。」
と呟いた。降りてくる松子はこの様子を知って居るのやら知らないのやら。
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