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島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(二百十五) まだ中々美しい
網守子の居る間は、豪(えら)く落ち着いた様に見えて居た江南は、網守子が去って後は、全く別人の様である。唯だアタフタと慌てて居る。其れも無理は無い。網守子の言うことが殆ど悉(ことごと)く事実であって、今にも自分の身が捕らえられる様に感じる。
唯紅宝石(ルビー)が、贋物(にせもの)であると言うことだけが、網守子に知られて居ないけれど、其れも何時までも分からずに居る筈は無い。
彼は今までも、内々は、此の様な事に成りはしないかと、心配しない訳では無かった。
けれど自分のした一切の悪事が、悉く一人の手に握られようとは思わなかった。そればかりか、色々と自分の方にも、言い抜ける道が有ると信じて居た。若し相手が網守子でさえ無かったなら、何とか誤魔化すことも出来る。
唯網守子ばかりは、頭から自分を犯罪人とのみ思い詰めて居て、理屈が合おうが合うまいが、少しも信念が動かないのである。其の上に、誰も知らない此の身の悪事を、残らず知り尽くして居る。実に面倒な事には成った。
彼は夜逃げの外は無いと、咄嗟の間に決心したのも止むを得ない。
けれど添子の方は、先ほど彼が網守子と争って居る時から、彼の到底逃れられないことを見て取り、色々に考えて居た丈に、多少の思案が附いたと見え、
「貴方一人夜逃げをして、私の身は何うなります。」
江「女と言う者は、何うでも身の振り方の附く者だ。芝居道へ帰るなり、今の生活を続けるなり、何うとも勝手にーーー。」
添「今の生活が何うして続けられます。貴方の名でして居る仕事がーー、犯罪の為夜逃げしたと分かって、誰が私を信じます。私だって直ぐに其の筋の嫌疑を受けーーー。」
江「では芝居道へ帰るのさ。」
添「今更、今更」
江「でも和女(そなた)の顔は、猶(ま)だ中々美しいから。」
添「止して下さい。今は貴方の口先に誤魔化されて居る場合では有りません。」
こう成っては夜逃げと言っても中々難しい。添子は更に、
「夜逃げにも旅費が要ります。」
江「旅費には、先日の四萬円が未だ幾らか有る筈だ。」
添「何時まで有ります者か。借金ばかりの貴方の会計を整理して、たとえ幾等か残って居ても、私の名前で銀行に在るのです。貴方の自由には成りません。」
江南は真実に怒りを示した、
「其れは甚(ひど)い言い分だ。あの金は私の金だ。私の権利だ。和女(そなた)が持って来たとは言え、紅宝石を売った金では無いか。私は第三女の子孫でも、古江田利八の血統を引いて居る。百萬円の宝に対し、少なくも幾萬円は割り前を受ける権利がある。和女の身には盗んだ金でも、私の身には正直に自分の金だ。」
実に理屈の附け様も有ったものである。
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