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島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(二百四十四) 無責任に無責任を
全く添子も江南も逃亡した後である。谷川は考えた。昨日来たとき、江南が旅行したと聞いたのは、既に江南だけ逃亡して、妻添子だけ後の片付けの為に残って居たので有ったかも知れない。
こうと分かっても、今更仕方が無い。もう何としても紅宝石(ルビー)は回復の道が無い迄に、完全に紛失した。
思うと共に谷川は、自分の身代限り《破産》する時が押し寄せたと感じ、非常に心が重くなった。
実に谷川の様に、単に正直一方で身を立てて、此の年まで真面目に築き上げた人に取っては、身代限り《破産》ほど辛い事は無い。
全く生涯の破滅である。名誉的にも金銭的にも自殺であって、再び職業を続けることは出来ない。四十年来営んだ職業を棄てて、他に何の生計が有ろう。単に乞食する一方である。而も谷川には妻も子もある。
自分一人は、例えば自殺したとしても済む様な者であるけれど、妻子ある身が其の様な無責任は出来ない。
此の様な場合に、大抵の人は、何うすれば再挙の出来るだけ、我が財産を、隠すことが出来るだろうと云うことを先ず考えるが、谷川はそうでは無い。何うすれば成る丈多く、弁償の義務が果たせるかと考える気質である。もう谷川の身に活路は無い。
多くの紳士は、自分の財産の外に、妻の財産が有る。自分は破産しても、妻の財産で世を送ることが出来る。谷川はそうで無い。彼は、貧しい位置から身を起こした立志伝中の人で、富家の娘を妻にする事が出来なかった。単に愛の為に、自分よりもっと貧しい女を妻としたのである。
のみならず、若し妻に財産が有ったならば、妻を説き伏せて、其れまでも弁償の方へ廻し度いのが、彼の気質である。のみならず弁償しなければ成らない高は、七十万円(現在の約7億円)以上で、ヨシや何の様な財産を掻き集めたとしても足り無い。
彼は悄々(すごすご)と馬車に乗り、事務所に帰った。彼の住居は事務所では無い。倫敦(ロンドン)の郊外に在って、汽車で通うのである。けれど今夜はもう家に帰ることが出来ない。イヤ出来ないのでは無い。帰る気が無いのである。彼は今帰ると云うことさえ忘れて居る。
独り靠(もた)れ慣れた机にもたれ、夜の益々更けるのをも知らずに考え込んだ。けれど浮かび出る思案は無い。
彼は深い深い嘆息と共に呟いた。
「アア己(おれ)の様な、自分の身の始末さえ良く出来ない男が、人の権利を預る様な、弁護士に成ったのが間違いであった。全く出発点に於いて、職業の選び方を誤ったのだ。今と為っては、オオ自殺の外は無いかも知らん。幸いに短銃(ピストル)は有る。アア自殺だ。自殺だ。イヤ自殺は無責任に無責任を重ねるのだ。」
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