simanomusume25
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(二十五) 見覚えの一紳士
網守子は、画(え)の天才と云えば、路田梨英の外に無いだろうと云う程に思って居た。取り分け海を描き、浪を写すに妙を得たと云えば、必ず彼に相違無いと思った。然るに、彼の外に此の蛭田江南がある。のみならず江南は画の外に、文芸家としても詩人としても天才であるとは、驚く外は無い。
江南は言葉を続け、
「貴女の音楽は、噂に聞いて居たよりも以上です。全く敬服しました。」
噂に聞いたとは、異様な言葉である。彼は是をも説明する様に、
「実に谷川弁護士は法学に於いて私の先輩でーーー。」
さては法学にも天才が有るのか知らん。余りに不思議である。
「ーーーイヤ、先輩と云うよりも寧ろ師で有ります。永年交わりを願って居ますが、先日逢った時、或る令嬢の為に侶伴《付添い》婦人を求めたいと云いますので、私が初鳥添子夫人を推薦しました。」
成るほど、此の様な間柄ならば、噂にも聞いたであろう。網守子は話の緒口(いとぐち)を得て、
「初鳥夫人は貴方のーーー。」
江「ハイ私の亡友の未亡人ですが、非常に親切な気質で、侶伴(りょはん)婦人としては、適当であろうと思いました。何にしても、貴女のお気に適(かな)ったのは、当人の仕合せのみならず、私も嬉しく思います。」
此の様子で見ると、此の人は、交際に於いても又天才では有るまいか。
網「ハイ、別に私の気に適(かな)ったと云うでも有りませんけれど、谷川弁護士が選んで下さった故。」
江「イヤ、誰の気にも適(かな)う婦人で有ります。追々気質がお分かりになれば、必ずお気に叶いますよ。」
この様にして、江南は、網守子を部屋の静かな方へ伴い、対座して種々芸術の話を始めた。網守子は、天才を尊敬する心持を以て、殆ど恭(うやうや)しく聞いて居たが、此の人の云うことは、総て教師が、自分の弟子に教える様な口調で、其の事柄も、網守子が今迄五年の修行中に読んだ教科書と、余程似通って居る。多分此の人の天才は、梨英の天才と全く質が違うので有ろう。
梨英は悉(ことごと)く意外な事ばかり云う。此の人は最もらしい事ばかりを云う。此の人の言葉は聞いて居ると、次に出て来る語が、必ずこうだろうと予想せられる。それだけ何だか重苦しく退屈を感ずるけれど、圧迫されて、身動きの出来ない様な気持ちになる。梨英の言葉には、気を引き立てられる様な感じが有った。
少時の後に網守子は、此の人の傍を離れて、部屋の一方を見ると、顔に見覚えのある一紳士が居る。網守子は、なつかしそうに其の人の傍に行き、打ち解けた言葉で、
「捨部竹里さん。」
と呼んだ。紳士は驚き、
「ハイ、私は捨部竹里ですが。」
網「私を忘れましたか、五年前にお目に掛かった寒村(さむそん)島の網守子ですよ。」
竹里は不思議そうにきょろきょろ見て、
「ヤ、変われば変わる者だ。全く見違えました。」
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